厳忠嗣
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厳 忠嗣(げん ちゅうし、? - 1273年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人世侯(漢人軍閥)の一人。東平を中心とする大軍閥を築いた厳実の息子で、兄弟には厳忠済・厳忠範らがいる。
概要
[編集]厳忠嗣は幼い頃より張澄・商挺・李楨ら東平厳氏に仕える名だたる学者に学び、経史・大義についてよく学んだという。1251年(辛亥)には兄で厳実の地位を継いでいた厳忠済より東平人匠総管の地位を授けられ、1255年(乙卯)には更に東平路管軍万戸とされた[1]。
1257年(丁巳)、厳忠済の南宋領の揚州への侵攻に従い、邵伯埭を取る戦功をあげた。また、1259年(己未)にはクビライの南征に従って厳忠済とともに淮河を渡り、厳忠嗣は別動隊を率いて桂車嶺に進出した。そこで厳忠嗣は南宋兵を大いに破って蘄州に至った。クビライ率いる本隊が長江を渡って鄂州を包囲した時には、90日余りにわたって攻城を続け、軍が北還した後には功績により金虎符を授けられた[2]。
中統3年(1262年)、山東の大軍閥の李璮が叛乱を起こすと、南宋兵はこの隙をついて蘄州を攻め始めた。更に徐州総管の李杲哥が南宋に降ったことで山東地方に南宋兵が入りこんだため、厳忠嗣はモンゴル将の按脱とともに蘄州・徐州で南宋兵を破って領土を奪還し、李杲哥を捕殺する功績を挙げた。更に嶧山・牙山を攻略する功績を挙げたため、按脱の報告により銀200両・幣50端を授けられた。しかしこれらの活躍にもかかわらず、漢人世侯の力を危険視したクビライ政権は「父兄弟子並びに仕えて途を同じくする者は、その弟子を罷めしむ」との布告を出したため、厳忠嗣も官を辞めざるを得なくなった[3]。その後、至元10年(1273年)に亡くなった[4]。
参考文献
[編集]- 愛宕松男『東洋史学論集 4巻』三一書房、1988年
- 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻148列伝35厳忠嗣伝,「忠嗣、実之第三子也。少従張澄・商挺・李楨学、略知経史大義。辛亥、其兄忠済授以東平人匠総管、遙領単州防禦使事。乙卯、充東平路管軍万戸」
- ^ 『元史』巻148列伝35厳忠嗣伝,「丁巳、従忠済略地揚州、取邵伯埭、首立戦功。己未南征、従忠済渡淮、分兵出桂車嶺、与宋兵相拒三晝夜、殺獲甚衆、始達蘄州。及渡江抵鄂、分部攻城九十餘日、戦甚力。師還、授金虎符」
- ^ 愛宕1988,82-83頁
- ^ 『元史』巻148列伝35厳忠嗣伝,「中統三年、李璮叛、宋兵攻蘄州、勢張甚、徐州総管李杲哥降于宋、斉魯山寨為宋兵所拠。忠嗣従大帥按脱救蘄県、復徐州、執李杲哥殺之。攻鄒之嶧山・滕之牙山、多所殺獲。按脱論功以聞、賜銀二百両・幣五十端。四年、朝廷懲青斉之乱、居大藩者、子弟不得親政、於是罷官家居。至元十年、卒」