張迪 (元)
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趙 迪(ちょう てき、1183年 - 1252年)は、13世紀半ばにモンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。真定府藁城県の出身。
概要
[編集]幼い頃に父親を亡くしたが、騎射に優れていたために金朝に仕えて義軍万戸に至った人物であった。誰にも引けなかった強弩を引いてみせたことから名を知られ、真定尉・藁城尉・藁城丞を歴任した[1]。
チンギス・カンによる金朝侵攻が始まるとこれに降り、1222年(壬午)には永安軍同知節度使事とされた。チンギス・カンの西征にも従軍し、他の将軍が掠奪を行う中で趙迪のみは軍律を厳しくしこれを禁じたという[2]。
真定一帯がモンゴル軍によって平定された時、千人余りの捕虜が出たが、趙迪は捕虜達は自分の物であると主張して他の将軍たちに手を出させなかった。他の将軍が去った後、趙迪は捕虜達に自らは捕虜を奴隷とする気はないと告げて解放したため、人々は感涙しつつ去って行ったという。1252年(壬子)に70歳にして亡くなった。息子は7人おり、その内の一人の趙椿齢は真定路転運使となった[3]。
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻151列伝38趙迪伝,「趙迪、真定藁城人也。幼孤、事母孝、多力善騎射。金末為義軍万戸。郡将出六鈞強弩、立賞募能挽者、迪能之、即署真定尉、遷藁城尉、陞為丞」
- ^ 『元史』巻151列伝38趙迪伝,「太祖兵至藁城、迪率衆迎降。歳壬午、改藁城為永安軍、以迪同知節度使事。嘗従帝西征、他将校豪横俘掠、独迪治軍厳、所過無犯」
- ^ 『元史』巻151列伝38趙迪伝,「先是、真定既破、迪亟入索藁城人在城中者、得男女千餘人、諸将欲分取之、迪曰『是皆我所掠、当以帰我』。諸将許諾、迪乃召其人謂曰『吾懼若属為他将所得、則分奴之矣、故索以帰之我。今縦汝往、宜各遂生産、為良民』。衆感泣而去。時兵荒之餘、骸骨蔽野、迪為大塚収瘞。壬子歳卒、年七十。子七人、椿齢、真定路転運使」
参考文献
[編集]- 井ノ崎隆興「蒙古朝治下における漢人世侯 : 河朔地区と山東地区の二つの型」『史林』37号、1954年
- 『元史』巻151列伝38趙迪伝