張致
張 致(ちょう ち、? - 1216年)は、金末の群雄の一人。兄は張鯨。
概要
[編集]1213年よりチンギス・カンの金朝侵攻が始まると、事実上金朝から見放された華北は荒廃し、各地で人望ある指導者が自立するようになった(後の漢人世侯)。1214年末、錦州に住まう張鯨は10万余りの配下を集めて金朝の節度使を殺し、臨海郡王を称した[1]。この頃、左翼万人隊長ムカリ率いる軍団が遼西地方に進出しており、張鯨はこれに降った[2]。1215年、これを受けてチンギス・カンは張鯨に華北の金朝残存勢力を討伐させようとしたが、石抹エセンは病と称して進軍することを拒んだ張鯨を叛意ありとして捕らえチンギス・カンの下に引き立てた。
チンギス・カンは張鯨に「今汝の弟(張致)を呼び出して質子(トルカク)とすれば、汝は死を免れるだろう」と述べて弟を差し出すことを要求し、張鯨はチンギス・カンの要求を一旦は受けいれたものの、宵の内に逃れだし、これを追った石抹エセンによって殺された。一方、これを知った張致は錦州で自立して漢興皇帝を称し、興龍と改元した[3]。
1216年(丙子)4月、モンゴル帝国に対抗するために張致は瀛王と自称して金朝朝廷に使者完顔南合・張頑僧らを派遣し、張致の来帰を受け容れた金朝朝廷は行北京路元帥府事・兼北京路宣撫使の地位を授けた[4]。また、これと並行してモンゴルに降った他の漢人世侯とも戦いを続けており、神水県では何実と戦い[5]、義州を拠点とする王珣に対しては楊伯傑と組んで挟撃しようとしたが、撃退されている[6]。
同年春には既にチンギス・カンは金朝遠征を切り上げてケルレン河の大オルドに帰還していたが、張致が興中を陥落させたとの報が届くと、改めて左翼万人隊長のムカリに張致討伐を命じた[7][8]。ムカリはウヤル[9]を中心とする史枢[10]・史天祥[11]・移剌捏児[12]・王珣ら遼西地方の軍団を招集して進軍し、一度は張致が奪った興中を奪還した。一方、張致は興中包囲線の最中に王珣の本拠地である義州を奪って王珣の家族を皆殺しとしてしまったため、これを聴いたチンギス・カンは逆党(張致ら)が平らげられた暁にはその一族・城邑・人民はすべて王珣に授け、徭役も5年免除し、王珣の一族は大官に取り立てようと述べたとされる[13]。
ムカリ率いる軍団は開義に進んで楊伯傑を捕らえ殺し、さらに錦州に進むと張致の部将の高益が裏切って張致の一族を捕らえ投降した。ムカリはチンギス・カンの言葉通り楊伯傑・張致配下の城邑・人民を王珣に授けたが、王珣は張致とその家族のみを殺して他はすべて許したという[14]。
参考文献
[編集]- 池内宏「金末の満洲」『満鮮史研究 中世第一冊』荻原星文館、1943年
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻1太祖本紀,「[太祖九年]冬十月、木華黎征遼東、高州盧琮・金朴等降。錦州張鯨殺其節度使、自立為臨海王、遣使来降」
- ^ 『元史』巻119列伝6木華黎伝,「[乙亥]錦州張鯨聚衆十餘万、殺節度使、称臨海郡王、至是来降。詔木華黎以鯨総北京十提控兵、従掇忽闌南征未附州郡。木華黎密察鯨有反側意、請以蕭也先監其軍。至平州、鯨称疾逗留、復謀遁去、監軍蕭也先執送行在、誅之。鯨弟致憤其兄被誅、拠錦州叛、略平・灤・瑞・利・義・懿・広寧等州」
- ^ 『元史』巻1太祖本紀,「[太祖十年]夏四月、克清・順二州。詔張鯨総北京十提控兵従南征、鯨謀叛、伏誅。鯨弟致遂拠錦州、僭号漢興皇帝、改元興龍」
- ^ 『元史』巻14宣宗本紀上,「[貞祐四年六月]壬辰、遼西偽瀛王張致遣完顔南合・張頑僧上表来帰。詔授致特進、行北京路元帥府事、兼本路宣撫使、南合同知北京兵馬総管府、頑僧同知広寧府」
- ^ 『元史』巻150列伝37何実伝,「[丙子]時張致復拠錦州、実与賊遇於神水県、挺身陥陣、殊死戦、殺三百餘人、獲戦馬兵械甚衆、木華黎奏賜鞍馬弓矢以励之。以功,為帳前軍馬都弾圧」
- ^ 『元史』巻149列伝36王珣伝,「丙子春、張致僭号錦州、陰結開義楊伯傑等来掠義州、珣出戦、伯傑引去。会致兄子以千騎来衝、珣選十八騎突其前、復令左右掎角之、一卒以鎗刺珣、珣揮刀殺之、其衆潰走、獲其馬幾尽」
- ^ 『元史』巻1太祖本紀,「[太祖十一年]丙子春、還臚朐河行宮。張致陥興中府、木華黎討平之」
- ^ 『元史』巻193列伝80李伯温伝,「李伯温、守賢之孫、彀之子也。……歳甲戌、錦州張致叛、国王木華黎命撃之、大戦城北、伯通死焉」
- ^ 『元史』巻120列伝7吾也而伝,「十一年、張致以錦州叛、又攻破之。木華黎大喜、以馬十匹・甲五事賞其功」
- ^ 『元史』巻147列伝34史枢伝,「枢字子明。……丁丑、従討錦州叛人張致、平之」
- ^ 『元史』巻147列伝34史天祥伝,「張致盗拠錦州、従木華黎討平之」
- ^ 『元史』巻149列伝36移剌捏児伝,「乙亥……及錦州賊張致兵勢方熾、且盗名号、木華黎命捏児与大将烏也児・雕斡児合兵討之。致拒戦、捏児出奇兵掩撃、斬致。木華黎第功以聞、遷龍虎衛上将軍・兵馬都提控元帥
- ^ 『元史』巻149列伝36王珣伝,「時興中亦叛、木華黎囲之、召珣以全軍来会、致窺覘其虚、夜襲之、家人皆遇害。及興中平、珣無所帰、木華黎留之興中、遣其子栄祖馳奏其事、帝諭之曰『汝父子宣力我家、不意為張致所襲。帰語汝父、善撫其軍、自今以往、当忍恥蓄鋭、俟逆党平、彼之族属・城邑・人民、一以付汝、吾不吝也。仍免徭賦五年、使汝父子世為大官』」
- ^ 『元史』巻149列伝36王珣伝,「珣以木華黎兵復開義、擒伯傑等、殺之。進攻錦州、致部将高益、縛致妻子及其党千餘人以献、木華黎悉以付珣、珣但誅致家、其餘皆釈之、始還義州」