紅襖軍
紅襖軍(こうおうぐん)とは、13世紀初頭に金朝治下の山東地方で起こった叛乱軍の名称。当初は南宋皇帝を主君と奉じて金朝と戦闘を繰り広げたが、金朝そのものがモンゴル帝国の侵攻によって衰退する中で、最終的には李全らに率いられてモンゴル帝国に降伏するに至った。
金朝の側からは「紅襖賊」、南宋の側からは「忠義軍」とそれぞれ呼ばれており、モンゴル語史料の『元朝秘史』でも「フラーン・デゲル(Hula'an Degel)」として言及されている[1]。
名称
[編集]「紅襖軍」という名称について、『金史』は「その党は往々にして互いに団結して各地を略奪し、皆紅襖を着て互いに識別したため、『紅襖賊』と号した」と記載している[2]。すなわち、中国史上の赤眉の乱・黄巾の乱・紅巾の乱と同様に、戦場で目立ちやすい目印を持つことで同士討ちを避けるために「紅襖」を纏ったことがこの名称の由来であった[3]。また、「紅巾を纏った反乱軍」は元末明初に起こったものが有名であるが、実際には北宋末の金侵攻時に江北一帯で初めてみられたものであり、北宋末の紅巾・金末の紅襖・元末の紅巾は軌を一にした集団とみられる[4]。これらの叛乱集団が特に「紅」を尊んだのは、宋朝が「火徳の王朝」であることから赤=紅が宋朝を象徴する色と見なされ、北方の異民族王朝(女真=金、モンゴル=大元)支配に抵抗するシンボルと見なされたためと考えられている[5]。
なお、北宋末の紅巾・金末の紅襖・元末の紅巾は個人的武勇に長けた任侠的性格を有する人物を首領に戴くことが多かった点でも共通しており、このような指導者は元末に原型が成立した『水滸伝』の好漢のモチーフになったと考えられている[6]。
背景
[編集]11世紀初頭より華北を支配した金は、12世紀後半の世宗の治世に全盛期を迎えたものの、その後継者の章宗の頃から治世の乱れが見えつつあった。特に、北方で契丹人の叛乱が起こったこと、チンギス・カンがモンゴル帝国を建国したことにより北辺の防備(金の界壕)を固めなければならなくなったことは、金領各地に重い負担となってのしかかった[7][8]。これを好機と見たのが金に奪われた領土奪還を目指す南宋で、1204年から1208年にかけて南宋は金領に侵攻した(一連の争乱は後世「開禧用兵」と呼ばれる)。この時に山東地方も金・南宋間の戦闘の最前線となり、生活が不安定化した山東地方では早くも群盗が起こり始めた。 後述するように、紅襖軍の第一世代にあたる劉二祖・楊安児はこの頃に活動を始めている。更に、1211年からはモンゴル帝国の金侵攻が始まり、野狐嶺の戦いで惨敗を喫した金はモンゴル軍に全領土を一方的に蹂躙された[9]。1214年には一度両国の間で和議が成立したことにより金朝側に余裕が生まれ、この頃に劉二祖・楊安児ら第一世代は討伐されている。
しかし、金の朝廷は開封への遷都を強行したことを切っ掛けにモンゴル軍の再度の侵攻を招き、一連の戦乱により黄河以北一帯は事実上無政府状態に陥った[10]。このような状況の中、金領各地で自衛・自治組織が成立し、幾度かの統廃合を経て「漢人世侯」と呼ばれる大勢力に成長していった。しかし、山東地方のみは打倒金を掲げる紅襖軍を再編するに至り、劉二祖・楊安児の系譜を継ぐ李全・石珪ら第二世代の紅襖軍が活躍を始めることとなった。
歴史
[編集]紅襖軍の歴史は劉二祖・楊安児の二大勢力が活躍していた時期と、李全らが活躍していた時期に大きく分けられる[11]。また、紅襖軍の第一世代に当たる楊安児・劉二祖らについては、現在の益都府と莒州を結ぶ線で大きく勢力圏が分けられる点が特徴として挙げられる[12]。すなわち、楊安児率いる集団は益都府と莒州を結ぶ線より東の膠萊平原と山東半島を支配下に置いており、劉二祖は山東の中央部の山地一帯を拠点としていた[13]。これら二つの勢力圏は、ほぼ当時の行政区画(山東東路・山東西路)とほぼ合致していた[14]。
劉二祖・楊安児の時代
[編集]山東地方で反金の気運が醸成された直接的なきっかけは、12世紀末に実施された「冒占官地の分配」 政策であったと考えられている[15][16]。これは、金の軍事力の根幹をなす猛安・謀克の経済的窮乏を救済するために「冒占官地(不法に占拠された官地)」を回収して猛安・謀克に分配するというものであったが、官地を名目に民有地の没収が強行されることも多く、先祖伝来の土地を奪われた漢人の反金運動は急速に広まった[17]。このような情勢下で、早くも1205年5月27日には李全が南宋の派遣した朱裕と組んで蜂起し、漣水県を占拠するという、「紅襖軍」の先駆けとなるような事件が起こっている。しかし、金側の強い抗議を受けた南宋はあっさりと李全・朱裕らを見限り、朱裕は金・南宋国境でさらし首とされてしまった[18]。このように一方的に山東の反金運動を利用するが、状況次第ですぐに見捨てるような南宋の態度は、後に紅襖軍側から見限られる遠因になったと評されている[19]。そして1206年からは南宋による金朝出兵(開禧用兵)が開始され、1208年に至る一連の戦闘により前線となった山東地方は更に疲弊を深めた[20]。
初期紅襖軍の代表的指導者の一人である楊安児は泰和年間に一度叛乱を起こしたが失敗し、金に降伏し「必勝軍」と呼ばれる義勇軍の副官に任じられていた人物であった[21][22][23]。しかし、対モンゴル戦線に派遣された楊安児は野狐嶺の戦いでの大敗北を受けて山東地方に逃れ帰り、1211年(大安3年)に再び背いて山東一帯を劫掠した[24][25]。しかし1214年(貞祐2年)4月に金朝とモンゴル軍の間に一時的に和議が結ばれると、金朝は僕散安貞を益都府に派遣して本格的に紅襖軍討伐を開始した。僕散安貞はまず益都城の東で楊安児を破ったものの、楊安児は敗走した先で萊州の徐汝賢を降して再起した[26][27]。更に、登州刺史の耿格が自発的に降ったことで楊安児の勢力はますます拡大し、楊安児は遂に皇帝号を称して「天順」と改元するに至った[28][29]。勢いに乗じて楊安児は東では寧海州を陥落させ、西では濰州を攻め、その配下の「元帥」方郭三は密州を拠点に沂州・海州を平定した[30]。
このような楊安児の動きに刺激を受け、濰州で李全が、周元児が深州・祁州で、馮天羽が石州で、それぞれ前後して蜂起するに至っている[31]。一方、劉二祖は楊安児が叛乱を起こした翌年の1212年(崇慶元年)に泰安州で決起したと伝えられる[32]。泰安州は泰山の南麓に位置する土地であり、劉二祖は紅襖軍に先行して泰和年間に泰山で叛乱を起こした集団の系譜を継ぐ者とみられる[33]。この頃、「紅襖軍の方郭三が村を過ぎれば、居民はこれを迎え出た」との記録もあり[34]、紅襖軍は山東の住民より支持を受けていたようである[35]。
同年7月17日、僕散安貞率いる金軍主力と徐汝賢率いる「三州の衆十万」の叛乱軍は昌邑城の東で激突し、戦闘は昼に始まって暮れまで続き、両軍は30里余りを転戦したが、遂に叛乱軍の敗北に終わった[36]。更に同月、棘七率いる4万の軍は辛河で僕散安貞率いる金軍と激突し、ここでも金軍に大敗し、萊州に逃れた。寧海州刺史の史潑立は20万の兵で以て城壁の東で金軍を防ごうとしたが敗れ、籠城を始めた。萊州の守りが堅いと見た僕散安貞は曹全・張徳・田貴・宋福らを偽って徐汝賢に投降させ、7月24日夜に全軍で城を攻めると同時に曹全らが内応し、遂に萊州は陥落した[37]。徐汝賢は乱戦の中で殺され、楊安児は単身逃れたものの、耿格・史潑立らも皆金軍に投降した[38][39]。楊安児勢力の瓦解が決定的となったと見た金は同年11月に楊安児とその配下を除いて山東地方に恩赦を出したため、形成不利と見たに楊安児は船に乗って岠嵎山(現在の海陽市の東)で曲成らの襲撃を受け殺されるに至った[40][41]。このように、楊安児の勢力は結局萊州の敗戦が決定打となって多くの構成員が金に降伏し、楊安児自身も殺されるに至ったが、楊安児の妹の四娘子は残党を率いて磨旗山を拠点とし、後に李全の勢力を合流するに至る[42]。
楊安児勢力を壊滅させた僕散安貞は、1215年(貞祐3年)2月より楊安児に並ぶ紅襖軍の指導者である劉二祖の討伐に向かった。僕散安貞は紇石烈牙吾塔とともに劉二祖の拠点である馬耳山を攻め、劉二祖配下の4千人余りを殺し、8千人を降伏させる大勝利を得た。その後、僕散安貞は宿州提控の夾谷石里哥と合流して劉二祖のもう一つの根拠地である大沫堌を攻め、両軍の間に激戦が繰り広げられた。最終的に夾谷石里哥率いる軍団が北門から城内に入り、別動隊が水寨を奪取し、遂に夾谷石里哥によって劉二祖は負傷して捕らえられた[43]。参謀官の崔天佑・太師の李思温らも捕らえられて劉二祖の勢力は壊滅し、劉二祖自身も後に斬刑とされた[44][45]。これ以後も孫邦佐・張汝楫ら残党が済南方面で抵抗を続けていたが、同年4月に完顔弼は使者を派遣して投降を促し、孫邦佐・張汝楫はこれを受け容れた。宣宗の許しを得た完顔弼は五品の官位で以てらの投降を受け容れ、孫邦佐は濰州刺史に、張汝楫は淄州刺史にそれぞれ任じられている[46]。
なお、兗州泗水県出身の郝定なる人物は劉二祖・楊安児の残党を集めて泰安州・滕州・単州等を支配し、百官を置いて「大漢皇帝」を称した[47]。郝定が他の紅襖軍頭目のように南宋皇帝を頼ろうとしなかったのは、金領から南宋領への亡命を厳しく禁じて淮河を渡ろうとした者達を射殺してきた南宋に失望したためと考えられている[48]。しかし、郝定もまた1216年5月に僕散安貞の討伐を受けて9万人が殺され、3万人余りが投降し、郝定自身も捕らえられてその勢力は瓦解した[49]。こうして紅襖軍の第一世代はほぼ壊滅し、残党は潜伏せざるをえなくなった[50]。
李全の時代
[編集]このような情勢下で注目されたのが李全・石珪ら紅襖軍残党で、楚州から沈鐸・高忠率いる北伐軍が出撃するのにあわせて李全・楊友・劉全・石珪・葛平・楊徳広ら紅拠軍残党に使者が派遣された。金朝による討伐によって困窮していた紅襖軍残党は順次南宋に帰順して「忠義軍」と呼ばれ、南宋の支援を受けた李全らは同年12月中に莒州・密州・青州などを瞬く間に占領した。
劉二祖・楊安児ら紅襖軍第一世代が討伐されたのとほぼ同時期、モンゴル帝国ではチンギス・カンが本国に帰還し、華北経略は「太師国王」と称したムカリに一任されるようになった。これと並行してモンゴルの対金政策も変わり始め、従来の略奪主体の侵攻ではなく現地の有力者(=後の漢人世侯)を帰順させる事に力を入れ始めたため、金朝は河北での支配権を事実上喪失することとなった[51]。貞祐5年(1217年)4月、北方での支配権を失った金朝は失地を南方で挽回せんと南宋侵攻を開始したが、このために山東地方にあって自立する李全ら紅襖系勢力がにわかに注目されるに至った[52]。この時、かつて楊安児の下にいたが南宋に亡命した沈鐸・季先らが知楚州の応純之の命を受けて紅襖系勢力を味方に引き入れるべく活動し、ここに至って食料不足に悩んでいた紅襖系首領は次々に南宋に帰順を表明した[52]。南宋側は軍を沈鐸と高忠皎の二手に分けて金朝領に侵攻しており、李全は5千の兵を率いて高忠皎軍に合流して海州を攻めたが、この時は食料不足のため一時東海に退却している[52]。12月、李全は改めて兵を分けて莒州を攻撃し、守将の蒲察李家を捕らえることに成功した[53]。また、配下の別将は密州を攻略し、兄の李福は青州を平定したため、李全の功績を認めた南宋朝廷は1218年(興定2年/嘉定11年/戊寅)正月10日(壬午)に正式に李全を京東路総管に任命した[52][54]。応純之は北伐軍が勝利を重ねるのを見て朝廷に今こそ中原恢復の時であると進言したが、南宋朝廷の実権者であった丞相の史弥遠は開禧用兵が失敗した経験から北伐には慎重な態度を示した。一方、これより李全らは南宋より「忠義軍」と呼ばれるようになり、また「忠義糧」と呼称された1万5千人分の食糧が南宋より紅襖軍=忠義軍に支給されるようになった[55]。ただし、この「忠義糧」は紅襖軍を南宋に帰順させた立役者の沈鐸らに優先して支給されており、これが後の紅軍どうしでの内部対立の遠因となった[56]。
しかし1218年に入ってからは金側も逆襲を開始し、4月22日(丁卯)には南宋軍が膠西で敗れ、来援した李全も敗走した[57][58]。また、4月27日(戊辰)には密州で李全は敗れて将校数十人・士卒700人が金軍に降り、5月4日(甲戌)には莒州・日照県の南でも招撫副使の黄摑に敗れて40里にわたって追撃を受けた[58][59]。なお、李全と協力関係にあった高忠皎も海州に侵攻したものの2月に朐山で戦死したが、その勢力は李全が継承したようで、同年5月には李全が海州への侵攻を南宋側に申し出ている[60]。6月からは海州の包囲を開始したが経略の阿不罕の奮闘によってなかなか降らず、7月には鄆州・単州・邳州・徐州から得た援軍とともに高橋で戦闘したが勝利を得られず、やむなく石秋に退守した。その後、李全は方向を変えて密州を再度攻め、9月11日(庚寅)にはようやく招撫副使の黄摑を捕虜として密州を占領することに成功した[61][62]。
忠義軍の内紛
[編集]1219年(興定3年/嘉定12年/己卯)に入る頃には山東からの流民が際限なく南宋領に逃れてきたため南宋側も物資不足となり、また罷免された応純之の後任の権知楚州の梁丙が忠義糧を削減して漣水軍の自然崩壊を図ったため、最も勢力の小さかった石珪が食料不足に陥った[60]。追いつめられた石珪らは同年1月に「忠義糧」を運ぶ舟を奪い、2月には2万の兵を率いて淮河を渡り楚州南度門を攻撃するという事件を起こした(南度門の変)[60]。これを受けて梁丙は説得のため李全を石珪の下に派遣し、石珪は李全の仲介を受け入れて撤兵し、淮西に侵攻した金軍を迎え撃つために盱眙方面に移ることとなった[60]。同年閏3月、李全は根拠地の東海で選抜した精鋭軍を率いて楚州から出撃し、忠義統轄の季先率いる漣水忠義軍とともに金軍を破ったが、 李全は「盧鼓槌」の異名を持つ金の猛将の紇石烈牙吾塔や僕散安貞を破る大功を立てた[60][63]。僕散安貞は楊安児・劉二祖ら紅襖軍の第一世代を討伐した張林であり、この一戦によって李全の声望は忠義軍の中で随一になったとみられる[60]。6月には更に益都を拠点とする金の元帥の張林を投降させたため、これによって青州・莒州・密州・登州・萊州・濰州・淄州・浜州・棣州・寧海州・済南府の12州が李全に投降し、7月中には山東の大部分の経略を完了した[60][64]。
同年9月、江淮制置使を発展解消する形で淮東制置使が成立し、以後この機関が紅襖軍=忠義軍を監督する地位に就いた[65]。一方、同時期に李全は広州観察使・左衛将軍・京東忠義諸軍都統制・楚州駐札に任命されたが、これは名実ともに李全が忠義軍の統率者の地位を認められたことを意味した[66]。しかし、歴代の淮東制置使は忠義軍への統制を強めようと厳しい態度で臨んだため、年を経るごとに淮東制置使と忠義軍の対立は激化し、結果として5人の淮東制置使の内3人までもが忠義軍の叛乱に遭って殺害されるという結果に終わっている[65]。9月14日(丙午)に新しく主管淮東制置司公事兼節制京東河北路軍馬に任命された賈渉は「昔の患は亡金だけであったが、今の患は更に山東忠義と北辺(=モンゴル)が加わっている(昔之患不過亡金、今之患又有山東忠義与北辺)」と評しており、忠義軍を潜在的な敵対勢力とみて事あるごとに忠義諸軍の勢力を殺ぐことを図った[65]。賈渉はまず石珪・陳孝忠・夏全らの軍を分けて両屯とし、李全軍は五砦とした[60]。そして陝西義勇法を用いて諸軍を淘汰し、三万人を整理し、残りの六万人弱に入れ墨して忠義軍として登録し、南軍七万人の監視下に置いた[60]。一方で、これと並行して李全軍に対しては2万人分の銭糧が増額され、楚州に従屯することを許すという懐柔策も講じている[60]。
1220年(興定4年/嘉定13年/庚辰)に入ると朝命を受けて出兵し、南宋に内附を求めた厳実の協力によって魏州・博州・恩州・徳州・懐州・衛州・開州・相州の9州を平定した。その後、楚州や盱眙の忠義軍部隊を率いて東平府を攻撃したが、盱眙忠義軍は本来石珪の影響下にある部隊であり、李全は他の忠義軍にも影響力の浸透を図っていたようである[66][67]。
忠義軍の併合
[編集]1220年6月、漣水忠義軍を統轄していた季先が、南宋政府に暗殺されるという事件が起こった[66]。賈渉をはじめ南宋の側では季先の死後、南宋から派遣した将に忠義軍を率いさせようと企んでいたが、予想に反して裴淵・宋徳珍・孫武正・王義深・張山・張友ら漣水忠義軍は石珪を新たな首領として迎え入れた[66]。このような経緯から右珪は南宋朝廷に敵視され、同年末には遂にモンゴル帝国に単身投降するに至った[66][68]。残された漣水忠義軍は李全軍に吸収され、また石珪配下の盱眙忠義軍についても、李全が盱眙忠義都統に任じられたことで支配下に入った[66][69]。
1221年(興定5年/嘉定14年/辛巳)正月、賈渉に対して劉卓とともに泗州を攻めることを請い、許されると盱眙より淮河を渡ってまず泗州の西城を攻めた。これを受けて金朝の側では「盧鼓槌」紇石烈牙吾塔を派遣し、李全はこれに大敗して撤退せざるをえなくなった[70]。1222年(元光元年/嘉定15年/壬午)2月には劉卓が再び泗州西城を奪取し、更に紇石烈牙吾塔配下の張恵が李全に寝返ったことでその部下数千人を配下に入れることとなった。またこの頃、塩場を巡って李全の兄の李福と張林が対立し、張林もまた石珪と同様にモンゴルに投降したが、後に邢徳という張林の副官が配下を率いて復帰したため、李全に打撃を与えるまでには至らなかった[68][71]。
南宋との対立
[編集]1223年(元光2年/嘉定16年/癸未)5月、初代の淮東制置使の賈渉が忠義軍の反抗に遭って楚州を追い出されるという事件が起き、文臣では力不足とみた南宋の朝廷は武臣たる淮西都統の許国を朝議大夫・淮東制置使に抜擢した[65]。許国は南宋政府の期待通り忠義軍弾圧を遂行したが、これに反発する李全と南宋側の溝はより深まった[72][65]。1224年(正大元年/嘉定17年/甲申)11月、許国は両淮馬歩軍13万人を楚州城外に集めて忠義軍を威圧したが、このような許国の態度は李全ら忠義軍の反感を集めた[65][73]。
1225年(正大2年/宝慶元年/乙酉)正月、史弥遠の策動により帝位継承から排除された済王趙竑は湖州に移されたが、土豪の潘壬・潘甫などが企てた反乱に巻き込まれた。潘甫は密かに李全と連絡して済王を擁立することを知らせ、李全も期日に合わせて呼応することを約したが、実は形勢を観望するまま助けてくれなかった。李全の援軍が到着せず、クーデターの謀議が発覚することを憂慮した潘壬らは塩賊1千人余りを集めて湖州城にいた済王を訪ねて推戴し、李全軍20万が済王擁立のため南下してくると扇動した。しかし、潘壬の群れが烏合の衆に過ぎないという事実に気づいた済王が朝廷に変を告げ、潘壬・潘甫などはみな誅殺された。湖州での事変に驚愕した史弥遠は刺客を送り済王も殺害したが、李全と結託したという潘壬らの虚言に人々が大いに動揺したとの逸話が伝えてくれるように、この頃の李全軍は既に強大な武力として南宋の朝廷から警戒されていたようである[66][74]。同年2月、益都の李全の命を受けた劉慶福が楚州で叛乱を起こすと、許国は襲撃を受けて落命してしまった(劉慶福の乱)。この叛乱には兵数千を率いて揚州に駐屯していた劉全も呼応し、盱眙の南軍にも不穏な動きがあり、他の忠義軍が連鎖的に叛乱を起こすことを恐れた南宋朝廷は結局李全たちを罰することができなかった[65]。このような経緯を経て南宋朝廷は忠義軍に対し懐柔策に転じ、三代目の淮東制置使には李全と親交が厚かった徐晞稷を任命した[65]。徐晞稷は当初こそ叛乱を起こした者たちを斬首するなど厳しい態度で挑んだが、後には彭義斌と対立した李全を救うなど、李全に味方する行動が多かった[75][76][77][78]。
脚注
[編集]- ^ 村上1976,160-161頁
- ^ 『元史』巻102列伝40僕散安貞伝,「自楊安児・劉二祖敗後、河北残破、干戈相尋。其党往往復相団結、所在寇掠、皆衣紅納襖以相識別、号『紅襖賊』。官軍雖討之、不能除也。大概皆李全・国用安・時青之徒焉」
- ^ 相田1980,56-57頁
- ^ 相田1980,58頁
- ^ 相田1980,57頁
- ^ 相田1980,58頁
- ^ 何ほか1992,461頁
- ^ 林1980,64頁
- ^ 林1980,64頁
- ^ 林1980,64頁
- ^ 林1980,64頁
- ^ 池内1977,32頁
- ^ 池内1977,32-33頁
- ^ 池内1977,33頁
- ^ 池内1977,30頁
- ^ 何ほか1992,463-464頁
- ^ 池内1977,30-31 頁
- ^ 池内1977,31頁
- ^ 池内1977,32頁
- ^ 何ほか1992,462-463頁
- ^ 林1980,65頁
- ^ 池内1977,33頁
- ^ 何ほか1992,466頁
- ^ 池内1977,33頁
- ^ 『元史』巻102列伝40僕散安貞伝,「初、益都県人楊安国自少無頼、以鬻鞍材為業、市人呼為『楊鞍児』、遂自名楊安児。泰和伐宋、山東無頼往往相聚剽掠、詔州郡招捕之。安児降、隷諸軍、累官刺史・防禦使。大安三年、招鉄瓦敢戦軍、得千餘人、以唐括合打為都統、安児為副統、戍辺。至鶏鳴山不進。衛紹王駅召問状、安児乃曰『平章参政軍数十万在前、無可慮者。屯駐鶏鳴山、所以備間道透漏者耳』。朝廷信其言。安児乃亡帰山東、与張汝楫聚党攻劫州県、殺略官吏、山東大擾」
- ^ 何ほか1992,467頁
- ^ 池内1977,36頁
- ^ 何ほか1992,467頁
- ^ 林1980,65頁
- ^ 『元史』巻102列伝40僕散安貞伝,「安貞至益都、敗安児於城東。安児奔萊陽。萊州徐汝賢以城降安児、賊勢復振。登州刺史耿格開門納偽鄒都統、以州印付之、郊迎安児、発帑蔵以労賊。安児遂僭号、置官属、改元天順、凡符印詔表儀式皆格草定、遂陥寧海、攻濰州。偽元帥方郭三拠密州、略沂・海。李全略臨朐、扼穆陵関、欲取益都。安貞以沂州防禦使僕散留家為左翼、安化軍節度使完顔訛論為右翼」
- ^ 何ほか1992,466-467頁
- ^ 池内1977,33頁
- ^ 池内1977,33頁
- ^ 『元史』巻122列伝60忠義2時茂先伝,「時茂先、日照県沙溝酒監、寓居諸城。紅襖賊方郭三拠密州、過其村、居民相率迎之。賊以元帥自称……」
- ^ 何ほか1992,467頁
- ^ 池内1977,36頁
- ^ 何ほか1992,467頁
- ^ 何ほか1992,467頁
- ^ 『元史』巻102列伝40僕散安貞伝,「七月庚辰、安貞軍昌邑東、徐汝賢等以三州之衆十万来拒戦。自午抵暮、転戦三十里、殺賊数万、獲器械不可勝計。壬午、賊棘七率衆四万陣于辛河。安貞令留家由上流膠西済、継以大兵、殺獲甚衆。甲申、安貞軍至萊州、偽寧海州刺史史潑立以二十万陣於城東。留家先以軽兵薄賊、諸将継之、賊大敗、殺獲且半、以重賞招之、不応。安貞遣萊州黥卒曹全・張徳・田貴・宋福詐降于徐汝賢以為内応。全与賊西南隅戍卒姚雲相結、約納官軍。丁亥夜、全縋城出、潜告留家。留家募勇敢士三十人従全入城、姚雲納之、大軍畢登、遂復萊州、斬徐汝賢及諸賊将以徇。安児脱身走、訛論以兵追之。耿格・史潑立皆降。留家略定膠西諸県、宣差伯徳玩襲殺方郭三、復密州。餘賊在諸州者皆潰去。安児嘗遣梁居実・黄県甘泉鎮監酒石抹充浮海赴遼東構留哥、已具舟、皆捕斬之」
- ^ 何ほか1992,468頁
- ^ 『元史』巻102列伝40僕散安貞伝,「十一月戊辰、曲赦山東、除楊安児・耿格及諸故官家作過駆奴不赦外、劉二祖・張汝楫・李思温及応脅誘従賊、並在本路自為寇盗、罪無軽重、並与赦免。獲楊安児者、官職倶授三品、賞銭十万貫。十二月辛亥、耿格伏誅、妻子皆遠徙。諸軍方攻大沫堌、赦至、宣撫副使・知東平府事烏林答与即引軍還。賊衆乗之、復出為患。詔以陝西統軍使完顔弼知東平府事、権宣撫副使。其後楊安児与汲政等乗舟入海、欲走岠嵎山。舟人曲成等撃之、墜水死」
- ^ 池内1977,36頁
- ^ 『元史』巻103列伝41夾谷石里哥伝,「夾谷石里哥、上京路猛安人。……与山東宣撫完顔弼攻大沫堌、賊衆千餘逆戦、石里哥以騎兵撃之、尽殪。提控没烈入自北門、遂擒劉二祖」
- ^ 池内1977.36頁
- ^ 『元史』巻102列伝40僕散安貞伝,「三年二月、安貞遣提控紇石烈牙吾塔破巨蒙等四堌、及破馬耳山、殺劉二祖賊四千餘人、降餘党八千、擒偽宣差程寛・招軍大使程福、招降脅従百姓三万餘人。安貞遣兵会宿州提控夾谷石里哥同攻大沫堌、賊千餘逆戦。石里哥以騎兵撃之、尽殪。提控没烈奪其北門以入、別軍取賊水寨、諸軍継進、殺賊五千餘人。劉二祖被創、獲之、及偽参謀官崔天佑、楊安児偽太師李思温。餘衆保大小峻角子山、前後追撃、殺獲以万計、斬劉二祖。詔遷賞没烈等有差。詔尚書省曰『山東東・西路賊党猶嘯聚作過者、詔書到日、並与免罪、各令復業。在処官司尽心招撫、優加存恤、無令失所』。十月、安貞遷枢密副使、行院於徐州」
- ^ 『金史』巻102列伝40完顔弼伝,「完顔弼、本名達吉不、蓋州猛安人。……三年、改知東平府事・山東西路宣撫副使。是時、劉二祖餘党孫邦佐・張汝楫保済南勤子堌、弼遣人招之、得邦佐書云『我輩自軍興屡立戦功、主将見忌、陰図陥害、竄伏山林、以至今日、実畏死耳。如蒙湔洗、便当釈険面縛、餘賊未降者保尽招之』。弼奏『方今多故、此賊果定、亦一事畢也。乞明以官賞示之』。詔曰『孫邦佐果受招、各遷五官職』。於是邦佐・汝楫皆降。邦佐遥授濰州刺史、汝楫遥授淄州刺史、皆加明威将軍。頃之、弼薦邦佐・汝楫改過用命、招降甚衆、稍収其兵、仗放帰田里」
- ^ 池内1977,37頁
- ^ 池内1977,37頁
- ^ 『元史』巻102列伝40僕散安貞伝,「[貞祐]四年二月、楊安児餘党復擾山東。詔安貞与蒙古綱・完顔弼以近詔招之。五月、安貞遣兵討郝定、連戦皆克、殺九万人、降者三万餘、郝定僅以身免。獲偽金銀牌・器械甚衆、来帰且万人、皆安慰復業。自楊安児・劉二祖敗後、河北残破、干戈相尋。其党往往復相団結、所在寇掠、皆衣紅納襖以相識別、号『紅襖賊』。官軍雖討之、不能除也。大概皆李全・国用安・時青之徒焉」
- ^ 林1980,65頁
- ^ 池内1977,37頁
- ^ a b c d 池内1977,38頁
- ^ 林1980,66頁
- ^ 『宋史』巻40寧宗本紀4,「[嘉定]十一年春正月壬午、京東路忠義李全率衆来帰、詔以全為京東路総管」
- ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「有沈鐸者、鎮江武鋒卒也、亡命盗販山陽、誘致米商、斗米輒售数十倍、知楚州応純之償以玉貨、北人至者輒捨之。又説純之以帰銅銭為名、弛度淮之禁、来者莫可遏。安児之未敗也、有意帰宋、招礼宋人。定遠民季先者、嘗為大侠劉佑家廝養、随佑部綱客山陽、安児見而説之、処以軍職。安児死、先至山陽、寅縁鐸得見純之、道豪傑願附之意。時江・淮制置李玨・淮東安撫崔与之皆令純之沿江増戍、恐不能禦、乃命先為機察、諭意群豪。叙復鐸為武鋒軍副将、辟楚州都監、与高忠皎各集忠義民兵、分二道攻金。先遂以李全五千人附忠皎、合兵攻克海州、糧援不継、退屯東海。全分兵襲破莒州、擒金守蒲察李家、別将于洋克密州、兄福克青州、始授全武翼大夫・京東副総管。純之見北軍屡捷、密聞於朝、謂中原可復。時頻歳小稔、朝野無事、丞相史弥遠鑑開禧之事、不明招納、密勅玨及純之慰接之、号『忠義軍』、就聴節制。於是有旨依武定軍生券例、放銭糧万五千人、名『忠義糧』。於是東海馬良・高林・宋徳珍等万人輻湊漣水、鐸納之、全与劉全倶起羨心焉」
- ^ 池内1977,42頁
- ^ 『金史』巻15宣宗本紀中,「[興定二年四月]丁卯……東平行省敗黒旗賊、抜膠西県、渠賊李全来援、並破之。戊辰、河北行省敗紅襖賊、進至密州、降偽将校数十人、士卒七百人、悉復其業」
- ^ a b 池内1977,39頁
- ^ 『金史』巻15宣宗本紀中,「[興定二年五月]甲戌、招撫副使黄摑阿魯答襲破李全於莒州及日照県之南、三道撃之、追奔四十里」
- ^ a b c d e f g h i j 池内1977,42頁
- ^ 『金史』巻15宣宗本紀中,「[興定二年九月]庚寅、李全破密州、執招撫副使黄摑阿魯答・同知節度使夾谷寺家奴」
- ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「嘉定十一年五月己丑、全軍至漣水、邀先白事楚城、取器甲金穀、議再攻海州、純之厚労全金玉器用及其下有差。六月、全囲海城、金経略阿不罕・納不剌等固守不下。七月、合鄆・単・邳・徐兵来援、全与戦於高橋、不勝、退守石秋、分兵襲密州、擒黄摑、械至楚城。是冬、徙屯淮陰之亀山」
- ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「十二年、山東来帰者不止、権楚州梁丙無以贍。先懇丙請預借両月、然後帥所部五千並良等万人往密州就食、不許。請速遣全代領其衆、又不許。丙以石珪権軍務、珪乃奪運糧之舟、二月庚辰、率軍二万度淮大掠。丙調王顕臣・高友・趙邦永以兵逆之、至南度門、顕臣敗、友・邦永遇珪、下馬与作山東語、皆不復戦。丙窘、乃遣全出諭之。時金人囲淮西急、馬司都統李慶宗戍濠、出戦、喪騎三千、珪及張春皆有亡失。帥司調全与先・珪軍援盱眙。全亦欲自試、親往東海点軍赴之。癸亥、遇金人於嘉山、戦小捷。三月、先軍進駐天長、全進駐盱眙、鼎立以待金人。乙酉、全至渦口、値金将紇石烈牙吾塔名『盧鼓槌』者将済、全与其将鹿仙掩之、金兵溺淮者数千、俘獲甚衆。壬辰、与阿海戦於化陂湖、大捷、殺金数将、得其金牌、追至曹家荘而還。三囲倶解、全喪失亦衆。阿海者、金所謂四駙馬也。全進達州刺史、妻楊氏封令人」
- ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「六月、金元帥張林以青・莒・密・登・萊・濰・淄・浜・棣・寧海・済南十二州来帰。始、林心存宋、及摑敗、意決而未能達。会全還濰州上塚、揣知林意、乃薄兵青州城下、陳説国家威徳、勧林早附。林恐全誘己、猶豫未納。全約挺身入城、惟数人従、林乃開門納之、相見甚歓、謂得所托、置酒結為兄弟。全既得林要領、附表奉十二州版籍以帰。表辞有云『挙諸七十城之全斉、帰我三百年之旧主』。表、馮垍所作也。秋、授林武翼大夫・京東安撫兼総管、其餘授官有差。進全広州観察使・京東総管、劉慶福・彭義斌皆為統制、増放二万人銭糧、徙屯楚州。先是、制置使賈渉以朝命督戦、許殺金太子者、賞節度使。殺親王、承宣使。殺駙馬、観察使。全致所得金牌於渉、云殺四駙馬所獲者。渉上於朝、乞如約賞之、故全有是受、而四駙馬実不死也。十一月、大雨雪、淮冰合。全請於制府曰『毎恨泗州阻水、今如平地矣、請取東西城自効』。制府遣就盱眙劉卓議、卓集諸将燕全、時青・夏全咸願以長槍三千人従。夜半度淮、潜向泗之東城、将踏濠冰傅城下、掩金人不備。俄城上荻炬数百斉挙、遥謂曰『賊李三、汝欲偸城耶』。天黒、故以火燭之。全知有備、引去」
- ^ a b c d e f g h 池内1977,44頁
- ^ a b c d e f g 池内1977,43頁
- ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「十三年、趙拱以朝命諭京東、過青厓堌、厳実求内附。拱与定約、奉実款至山陽、挙魏・博・恩・徳・懐・衛・開・相九州来帰。渉再遣拱往諭、配兵二千、全亦請往、渉不能止、乃帥楚州及盱眙忠義万餘人以行。拱説全曰『将軍提兵度河、不用而帰、非示武也、今乗勢取東平、可乎』。於是全合林軍得数万、襲東平之城南。金参政蒙古綱帥衆守東平、全以三千人金銀甲・赤幟、繞濠躍馬索戦。時大暑、全見城阻水、矢石不能及、乃与林夾汶水而砦、中通浮梁来往。一夕、汶水溢、漂大木、断浮梁、全首尾幾絶、蓋金人堰汶水而決之也。詰旦、金騎兵三百奄至、全欣然上馬、帥帳前所有騎赴之、殺数人、奪其馬、逐北抵山谷。上有龍虎上将軍者、貫銀甲、揮長槊、盛兵以出、旁有繡旗女将馳槍突鬥。会諸将至、抜全以出、乃退保長清県、精鋭喪失大半、統制陳孝忠死焉。林兵還青州。全所携鎮江軍五百人多怨憤、全乃分隷拱、使先帰、而以餘衆道滄州、假塩利以慰贍之。龍虎上将軍者、東平副帥干不塔。女将者、劉節使女也」
- ^ a b 池内1977,41頁
- ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「全至楚州、属召先赴行在。全自渦口之捷、有軽諸将心、独先嘗策戦勲、威望不下己、患之。乃陰結制帥所任吏莫凱、使譖先、先卒、全喜而心益貳。渉乗先死、欲収其軍、輟統制陳選往漣水以総之。先党裴淵・宋徳珍・孫武正及王義深・張山・張友拒而不受、潜迎石珪於盱眙、奉為統帥。珪道楚城、渉不知覚、及選還、渉恥之、乃謀分珪軍為六、請於朝、出修武・京東路鈐轄印告各六授淵等、使之分統、謂可散其縦。淵等陽受命、渉即聞於朝、謂六人已順従、珪無能為矣。其後有教令皆不納、然後知淵等猶主珪、渉恐甚。全結府吏伺知之、乃見渉、請討珪、渉未有処。議者請以全軍布南度門、移淮陰戦艦陳於淮岸、以示珪有備、然後命一将招珪軍、来者増銭糧、不至罷支、衆心一散、珪党自離。渉用其策、珪技果窮。珪素通好於大元、至是殺淵而挾武正・徳珍与其謀主孟導帰大元。漣水軍未有所属、全求並将之。客有請以附淮将者、曰『使南将主北軍、則淮・楚為一』。渉然之、且曰『先在時有三千虚籍、今当遣明亮核実、因可省費』。全聞之即献計曰『全若朝将此軍、夕与核除虚籍』。因卑辞献珍具以自結、渉不能却、遂以付全。翌日、復命曰『初謂有虚額、昨夕細点、万五千人之外尚溢十数名』。渉始悟全見紿、他日議更遣幕属点之。吏亟報全、全忽状白渉『昨夕三鼓、漣水告警、云金人万餘在邳州。全思漣水去邳咫尺、既無険阻、城壁復弊、一被攻劫、則直臨淮面、罪在全矣。深夜不敢驚制使、已調七千人迎敵矣』。渉知全詐、因寝点軍之議。全又白制府請於朝、以劉全為総管駐揚州、分数千兵従之、而将其衆。十一月丁未、全遊金山、作仏事、以薦国殤。知鎮江府喬行簡方舟逆之、大合楽以饗之。総領程覃迭為主礼、務誇北人以繁盛。全請所狎娼、覃不与、全帰、語其徒曰『江南佳麗無比、須与若等一到』。始造舭達舟、謀争舟楫之利焉」
- ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「十四年正月、金人将南来、全請於渉、欲与劉卓共図泗州、以伐其謀、渉許之。全兵至盱眙度淮、攻克泗州之西城、入城布守。卓徙盱眙芻粟以実之、防城之具倶撤以往、為必守之計。未幾、盧鼓槌来取西城、全盛兵出戦、大敗、統制頼興死、全閉城自守。明日復戦、不勝、全遁帰、資糧器械悉以委敵。金人既陥蘄州、扈再興・趙範及其弟葵邀撃於天長。全随行襲金人後、謁而賀曰『二監軍已立大功、乞以餘寇付全追之』。然全追之不甚力、亦以是進承宣使」
- ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「十五年二月、卓再取西城、盧鼓槌背城力戦、戒恵必獲全、不獲則斬。恵数嘗敗全於山東、而不能獲、毎歎曰『天假此賊、事未可量』。及聞盧鼓槌言、自度進未必獲、退復受戮、即陳躍馬奔全壁、棄所執兵請降。全掖而起之、相与歓甚。不数日、恵戯下数千人皆潜至、全与恵帰、請於制置司官之、令自総一軍。膠西当登・寧海之衝、百貨輻湊、全使其兄福守之、為窟宅計。時互市始通、北人尤重南貨、価増十倍。全誘商人至山陽、以舟浮其貨而中分之、自淮転海、達於膠西。福又具車輦之、而税其半、然後従聴往諸郡貿易、車・夫皆督辦於林、林不能堪。林財計仰六塩場、福恃其弟有大造於林、又欲分其半、林許福恣取塩、而不分場。福怒曰『若背恩耶。待与都統提兵取若頭爾』。林懼、訴於制置司。渉密召林戯下問之、福伏兵於途以伺、林覚不追。於是李馬児説林帰大元、福狼狽走楚州。冬、加全招信軍節度。林猶遺渉書詆全、明己非叛。渉以咎全、全請為朝廷取之、乃提師駐海州以迫林。渉間道遣黥胥王翊・閻瓊労林、林泣涕道其故。翊帰、全使人殺諸塗。全攻林急、林走、全遂入青州」
- ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「十六年二月、渉勧農出郊、暮帰入門、忠義軍遮道、渉使人語楊氏、楊氏馳出門、佯怒忠義而揮之、道開、渉乃入城。自是以疾求去甚力。五月被召。卒。秋、全新置忠義軍籍。初、渉屯鎮江副司八千人於城中、翟朝宗統之。分帳前忠義万人、屯五千城西、趙邦永・高友統之。屯五千淮陰、王暉及于潭統之、所以制北軍也。全軽鎮江兵、且以利啖其統制陳選及趙興、使不為己患。唯忌帳前忠義、乃数称高友等勇、遇出軍必請以自随、渉不許。全毎燕戯下、並召渉帳前将校、帳前亦願隷焉、然未能合也。及丘寿邁摂帥事、全忽請曰『忠義烏合、尺籍鹵莽。莫若別置新籍、一納諸朝、一申制閫、一留全所、庶功過有考、請給無弊』。寿邁善而諾之。全乃合帳前忠義悉籍之、尽統其軍、時人莫悟。十一月、許国自武階換朝議大夫・淮東安撫制置使、命下、聞者驚異。先是、国奉祠家食、数言全必反、欲傾渉而代之。会召国奏事、国疏全奸謀甚深、反状已著、非有豪傑不能消弭、蓋自鬻也。至是、喬行簡為吏部侍郎、上疏論国望軽、不宜帥淮、不報。山陽参幕徐晞稷雅意開閫、及聞国用、晞稷闕望、乃誉国奏注釈以寄全、全得報、不楽。是冬、金将李二措及邳州守致書海州、欲附宋、全戯下周岊得之、即以報全。全喜、遣王喜児以兵二千応接、而己継之。二措納喜児而囚之。全兵欲攻邳、四面阻水、二措積勁弩備之、全不得進、合兵索戦。全敗、欲還楚州、会浜・棣有乱、乃引兵趨山東」
- ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「十七年正月、国之鎮、楊氏郊迓、国辞不見、楊氏慚以帰。国既視事、痛抑北軍、有与南軍競者、無曲直偏坐之、犒賚十裁七八。全自山東致書於国、国誇於衆曰『全仰我養育、我略示威、即奔走不暇矣』。全固留青州、国不能致。四月、全遣小吏致再書、国喜、曲加労接、即日真補承信郎、冀結其心。小吏曰『小吏奉書而遽得命、諸将校謂何』。不受、帰語其徒以為笑。国見全無来朝、数致厚饋、邀全議事。会劉慶福亦使人覘国意向、国左右知之、語覘者曰『制置無害汝等意』。慶福以報全、全集将校曰『我不参制閫、則曲在我。今不計生死必往見』。八月、全上謁、賓讃戒全曰『節使当庭趨、制使必免礼』。及庭趨、国端坐納全拝、不為止。全退、怒曰『庭参亦常礼、全帰本朝、拝人多矣、但恨汝非文臣、本与我等。汝向以淮西都統謁賈制帥、亦免汝拝。汝有何勲業、一旦位我上、便不相假借耶。全赤心報朝廷、不反也』。国継設盛会宴全、遺労加厚、全終不楽。国之客章夢先主幕議、慶福謁見、夢先責客将、令隔簾貌喏、慶福不能堪。国以名馬十餘噭遺全、不受。国固遣、全俟其充斥階庭、伺候移時、而復却之。如是者半月、卒不受。全欲往青州、懼国苛留、自計曰『彼所争者拝也、拝而得志、吾何愛焉』。更折節為礼。因会、席間出札白事、国見其細故、判従之、全即席再拜謝。自是動息必請、得請必拝、国大喜、語家人曰『吾折伏此虜矣』。義斌求趙邦永来山東、全為白之、国諾。邦永乗間告国曰『邦永若去、制使誰与処』。国曰『我自能兵、爾毋過慮』。邦永泣而辞之。全遂往青州。十一月、国集両淮馬歩軍十三万、大閲楚城之外、以挫北人之心。楊氏及軍校留者恐其図己、内自為備」
- ^ 『宋史紀事本末』巻88史弥遠廃立,「理宗宝慶元年春正月庚午、湖州人潘壬與其従兄甫、弟丙、以史弥遠廃立、不平、乃遣甫密告謀立済王意於李全。全欲坐致成敗、陽与之期日進兵応接、而実無意也。壬等信之、遂部分其衆以待。及期、全兵不至、壬等懼事泄、乃以其党雑販塩盗千餘人、結束如全軍状、揚言自山東来、夜入州城、求済王。王聞変、匿水竇中。壬尋得之、擁至州治、以黄袍加王身。王号泣不従、壬等彊之、王不得已、乃与約曰:「汝能勿傷太后、官家乎?」衆許諾、遂発軍資庫金帛、会子犒軍。知州謝周卿率官属入賀。壬子、偽為李全榜、掲於門、数史弥遠廃立罪、且曰:「今領精兵二十万、水陸並進」。人皆聳動。比明視之、則皆太湖漁人及巡尉兵卒耳。王知事不成、乃遣王元春告於朝、而帥州兵討壬。壬変姓名走楚州、甫・丙皆死。元春至行在、史弥遠懼甚、急召殿司将彭任帥師赴之、至執事平矣。壬至楚、将渡淮、為小校明亮所獲、送臨安、斬之。弥遠忌竑、詐言竑有疾、令余天錫召医入湖州視之。天錫至、諭旨、逼竑縊於州治、以疾薨聞」
- ^ 池内1977,45頁
- ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「宝慶元年、湖州人潘甫与其従弟丙・壬起兵、密告全党於山陽、全党欲坐致成敗、然其謀而不助之力。甫帰、陰勒部曲及聚販塩盗至千餘、結束如北軍、率衆揚言自山陽来擁立済王、事見『竑伝』。時全図国之意已決、遣慶福還楚城、使為乱。或教楊氏畜一妄男子、間指謂人曰『此宗室也』。至語郡僚曰『会令汝為朝士』。潜約盱眙四軍相応。忠義統領王文信有衆八百、渉徙刺揚州強勇軍。国之聚兵大閲、文信在焉、慶福与謀、令帰襲揚州、別遣将劫宝応、事済即揮衆度江。盱眙四将不従、於是慶福等謀中輟止、欲快意於許国焉。計議官苟夢玉知之、以告国、国曰『但使反、反即殺、我豈文儒不知兵耶』。夢玉懼禍及己、求檄往盱眙、復告慶福曰『制帥欲図汝』。両為自結之計。乙卯、国晨起蒞事、忽露刃充庭、客駭走、国厲声曰『不得無礼』。矢已及顙、流血蔽面、国走。乱兵悉害其家、大縦火、焚官寺、両司積蓄尽入賊。親兵数十人翼国登城楼、縋城走、伏道堂中宿焉。時四明人姚翀通判青州、全豫令還山陽、及漣水而復止之。至是、擁翀入城、与通判宋恭喝犒南北軍、使帰営。是日、慶福首殺夢先以報貌喏之辱、戒諸軍毋害苟夢玉家、護以五十兵。初、国倚揚州強勇軍統制彭興及淮西親兵将趙社・朱虎等為腹心、至是首降賊、且助為乱。惟丁勝・張世雄・沈興・杜靖毗・富道不屈、或与賊巷戦、興手殺賊将馬良。賊党得志、更相賀、独張正忠歎曰『若曹不識事体、朝廷豈置汝耶』。王文信復献計慶福曰『我偽作重傷、提本部軍帰揚州、揚守必不疑、我生縛守、以其城献』。慶福喜、夜飲而遣之。丙辰、許国縊於途。丁巳、文信将至揚州、其徒有亡入城告変者。時揚之兵皆在楚、知州兼提点刑獄汪統会同官議、鈐轄趙拱曰『若不納、則文信必曰「我帰営、何故見拒」。将借是以魚肉城外之民。拱素善文信、請説止其兵、而以単騎入、俟入城而殺之、然後撫其兵、領往盱眙、分隷張・范戯下』。統喜、遣之。遇文信於十里頭、置酒相労苦、文信偽為裹創状。拱曰『忠義反楚州、揚州人見忠義暮帰、豈不相疑。不若暫駐兵城外、然後同見提刑、提刑急欲知楚州事也』。文信不疑、聯騎入城、坐客次。拱先入、勧統収戮之、統躊躇不敢発。劉全知其謀、帥甲士突入郡堂、厲声曰『王統領好人、提刑不必疑、請出受参』。統不得已、出而犒之。劉全以兵翼之出、館其家。詰旦、統未有処。拱又請引文信出城、与議回屯楚州。文信知事泄、拱就出、劉全亦請従。至平山堂、文信責拱売己、欲殺之、拱曰『爾謀如此、三城人命何辜。我已存三城人、身死無憾。然我死、汝八百家老幼在城、豈得生耶』。文信及其衆動色、文信・劉全遂還楚州。時盱眙総管夏全聞山陽得志、亦懐異図、劉卓厚賂之、乃止。及文信乱、卓懼夏全復動、乃使卞整将兵三千視之、使不敢動。整以邀文信為辞、引兵還揚州、因偽言盱眙失守、卞整為乱、於是揚州復震、城門晝閉。弥遠懼激他変、欲姑事涵忍而後図之。謀帥莫可、以徐晞稷嘗倅楚州・守海州、得全歓心、晞稷亦勇往、乃授淮東制置使、令出屈撫全。時慶福以事済報全、全又牒義斌等曰『許国謀反、已伏誅矣、爾軍並聴我節制』。義斌得牒大罵曰『逆賊背国厚恩、擅殺制使。此事皆因我起、我必報此仇』。呼趙邦永曰『趙二、汝南人、正須爾明此事』。乃斬齎牒人、南向告天誓衆、見者憤激。全自青州至楚城、佯責慶福不能弾圧、致忠義之哄、斬数人、請待罪、朝廷未之詰。趙範時知揚州兼提点刑獄、得制置印於潰卒中、以授晞稷。全遣騎逆晞稷。己卯、晞稷入楚城。劉全躍馬登郡庁、晞稷迎之、全及門下馬、拝庭下、晞稷降等止之、賊衆乃悦」
- ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「[宝慶元年]四月、潘壬変姓名至楚州、将度淮而北、小校明亮獲之、械送行在伏誅。甲午、時青使人偽為金兵、道邳州、出漣水、奪全田租而伏騎八百。翌旦、全引二百騎度淮与闘。伏発、全敗、囲之、慶福以兵往抜全出。全与慶福倶重傷、帰楚州。丁勝・張世雄欲乗全敗挙兵追北軍、晞稷止之。全後知其謀、対晞稷詰之、二人不為屈。然懼禍及己、晞稷乃潜授世雄雄勝軍統制、教使逃而陽索之。北軍追世雄、世雄且戦且走、得達揚州。晞稷初至楚、緩急相済、如囚趙社、逐朱虎、賊尚知畏。屡令全還戦馬・軍器於制司、全唯唯。退招姚翀及将校飲、酒酣、全曰『制司追我戦馬・軍器、若何』。忽有将校曰『当時忠義隻百十人、其他軍皆南軍乗勢将帶、若潰将何以還』。一人曰『制司必欲追之、不若有官者棄官、無官者帰山東為百姓』。一人抵掌憤然、使全反、全陽罵之。翀以告晞稷。翌日、全見晞稷求納官、晞稷撫之而去。自是不復誰何、其後至以『恩府』称全・『恩堂』称楊氏、而手足倒置矣。軍器庫止餘槍幹数千、全復取去。全欲戦艦、晞稷使択二艘。全移出淮河、使軍習之。初、楚城之将乱也、有吏窃許国書篋二以献慶福、皆機事。慶福賞盗篋者五百千、未之閲。全始発緘、使家僮読之、有廟堂遺国書令図全者、全大怒。又有苟夢玉書、即以慶福謀告国者、全始悪夢玉反覆。夢玉知之、時已被堂召、亟辞全如京。己卯、全饋餞夢玉如平時、潜殪諸十里之郊、復出榜捕害夢玉者。全往青州」
- ^ 『宋史』巻476列伝235叛臣中李全伝,「[宝慶元年]五月丁卯、全取東平、不克。戊寅、劉全以券易制司銭、不如欲、復謀乱、楊氏出二千緡解之、乃止。全引兵攻恩州。明日、義斌出兵与全鬥、全敗。義斌以千五百騎追之、獲馬二千匹、皆揚州強勇軍馬也。慶福往救、又敗。全退保山堌、抽山陽忠義以北。楊氏及劉全皆欲親赴之、会全遣人求晞稷書与義斌連和、乃止。義斌納全降兵、兵勢大振、進攻真定、降金将武仙、衆至数十万、致書沿江制置使趙善湘曰『不誅逆全、恢復不成。但能遣兵扼淮、進拠漣・海以蹙之、断其南路、如此賊者、或生擒、或斬首、惟朝廷所命。賊平之後、収復一京三府、然後義斌戦河北、盱眙諸将・襄陽騎士戦河南、神州可復也』。時四総管亦各遣計議官致書、乞助討賊、範亦以為言、不報。全貽書制置司、誣義斌叛、晞稷繳達之。時朝廷知義斌之功、憚全、未欲行賞。未幾、義斌俟命不至、拓地而北、与大元兵戦於内黄之五馬山。大元兵説之降、義斌厲声曰『我大宋臣、且河北・山東皆宋民、義豈為他臣属耶』。遂死之。戯下王義深等復帰全。全使人説時青附己、饋金五百両。青見義斌死、乃附全、自移屯淮陰。全招青入城飲、折俎銅券二千、他饋称是、恩遍麾下、人人喜悦。晞稷宴青、全饋折俎如前。全将往山東、以南軍九百従、官犒鉄銭券人五千、全犒銅銭三倍、許携南貨免税。於是請行者不已、得千人以倶、晞稷又以千八百人継之」
参考文献
[編集]- 大島立子「金末紅襖軍について」『明代史研究』創刊号、1974年
- 池内功「李全論:南宋・金・モンゴル交戦期における一民衆叛乱指導者の軌跡」『社会文化史学』14号、1977年
- 相田洋「紅巾考:中国に於ける民閒武装集団の伝統」『東洋史研究』38巻4号、1980年
- 林章「金末の山東の民乱について」『史学論叢』11、1980年