初カモ猟で考えたり発見したりしたこといろいろ
帰ってからすぐに鴨汁にして食べました。
初めて自分で羽をむしったカモ。すげーうまかったです。
ガラで出汁とって大切に大切に食べました。
わたくしは日常的に殺生をしている女である。
蚊を見ると叩き潰すし、ハエもムカデも見つければ殺す。
野菜にくっついてる虫は素手はヤなのでハサミでチョキンと切るし、
菜っ葉をゆでれば一匹か二匹、コナガの幼虫が浮いてくる。
人生のなかでこのような殺生をどれだけしたか。きっと数え切れない。
しかしとくに罪悪感は持っていない。なぜか。
たぶんこれらの虫は小さくて「害虫」というくくりに入っているし、
意思の疎通もできないだろうと思うからである。
では意思の疎通が可能なものを殺すのはどうか。
例えば飼っている猫とか金魚とか、カエルでもタコでもいい。
それはさすがに殺せないだろうと思う。
言ってみればわたくしは、自分勝手に生命に線引きしているのだ。
おそらく人はそれぞれのものさしで勝手な線を引いているはずだ。
だからわたしとあなたのものさしも、線の引き方も違っている。
ということを、まず最初に言っておきたい。
さて、狩猟シーズンになると、某D社には時々
ハンターの農家からカモが送られてきた。
毎回勤続数十年のみんなの先輩I氏がさばいて料理してくれた。
初めてカモをさばくところを見たとき内臓とか血とかにちょっとびびったが、
「いつかああいうことができるといいな」と素直に思った。
鳥すらもさばけないのでは生きものとして脆弱ではないか、
と常日頃思っていたからである。
きゃー、かわいそー、などと言う女は周りにはいなかった。
ずーっと食べてみたかったコガモのガラで出汁取り中。
ちいちゃいのでちょびっとしかできません。
卸値を聞いたら一羽700円なんだって。むー。
わたくしが銃の所持許可を取って最初に考えたのはこの、
「ちゃんと鳥をさばけるだろうか」ということだった。
血や内臓に触れられるだろうか。吐き気はしないだろうか。
なんとなく生理的な嫌悪感のみについて心配をしていた。
実際には「さばく」とかいう行為の前にいろんなことがあって、
わたくしにとってはそちらの体験がとても重要に思えた。
しかし二回目も同じように感じるかどうか。だから書いておく。
わたくしは鳥の中でもカモはとても好きなのだが、
くちばしのくるんとしたところとつぶらなひとみがとくに好きなのだ、
と、撃ち落とされたカモを見て気がついた。
カモは通常池や川に浮かんでいるので間近で見ることはできない。
空から落っこちてきたカモはしみじみ観察できるし触ることもできる。
カモは自分の想像よりもかなり大きくて、くちばしに小さな歯があり、
生きてると目が開いているが、死ぬとまぶたが閉じる。
撃たれて落っこちてきたカモは少しの間動いていたり、
全く動かなかったりといろいろだ。死んでいないものは苦しめないよう
きちんと止めを刺してやらなくてはならない。
落ちてきた時点で血まみれのもの、全く血が見られないものがいる。
わたくしが羽をむしったカモには弾は2箇所しかあたっていなかった。
散弾はさばくときにコロンと取り除けるほど浅い位置にあった。
「これでなぜ死ぬんだろう」とわたくしは思った。
散弾はほんとに小さくて心臓にすら届いていない。
ビックリして死んでしまうのか、落っこちて打撲で死ぬのか。
聞いてみたが、おじさまたちにもよくわかっていないようだった。
カルガモ3羽とコガモ1羽ぶんの砂肝をコンフィにしてみた。
柔らかくておいしくてあっという間に食べちゃった。
しかしおじさま方はカモの内臓はあまり食べないらしい。
レバーとかおいしそうなのになー。
死んだカモはいつまでもあたたかくて
毛をむしっている間もカモを持っている左手はずっとあたたかかった。
あたたかいお湯に手を浸けているようなあたたかさというか、
心地よくていつまでもいつまでも持っていたいあたたかさだった。
羽は表面に見えているものの下に小さなふわふわしたのが生えていて、
それぞれに微妙な模様がありそれらが重なり合って模様が完成する。
誰がこの模様の配列や構造を決めたのか。
そして風切り羽がなぜ美しいブルーグリーンなのか。
見れば見るほど不思議なのだった。
「ちょっとさあ、なんかこのへんにキレイなの入れとく? 楽しいから」
なんて、神様がカモをつくったときに考えたのかもしれない。
ヒトはいろいろなものをつくる。空を飛ぶ鳥も落とせる銃もつくる。
しかしこのような模様を鳥に与えることはできないし、つくることもできない。
わたくしはなにかとても貴重なもの、この世に一羽しかいないものの
羽根をむしっているのだった。
自分が撃ったわけではなかったがこの思ったよりずっしりと重いカモの生命に
とてつもない責任を感じた。どうしたらいいだろう。そうだ。
全部自分が食べるのだ。それしかない。
ふだんのわたくしに執着心はあまりなくすべてのものがだいたいどうでもいい。
しかしこのとき、左手に持っているまだあたたかいカモだけは違った。
「おいしく食べるから。全部食べるから」
わたくしはまじないのように心のなかで繰り返しながらひたすら羽根をむしった。
胴体の羽根がなくなると、カモはクリスマスのローストチキンのようになり、
さっきまでカモだったのに肉にしか見えなくなった。
肉に翼と首がくっついてる。そんな感じだ。
カモから肉になるまで15分くらいだっただろうか。
永遠のように感じたがあっと言う間のようにも思えた。
おうちでさばいたコガモの肉はこんなにちょびっと。
可食部分が少ないから、コガモの卸値は一羽700円なんだって。
おいしいけど出回らない理由はそれだ。
カモに対する祈りのような気持ちはうっすらと残っていたが、
二羽目の羽根をむしり始めたらどこかに消えていった。
もう「いかに早く効率よくむしるか」ということだけ考えており、
二羽目のカモの顔や模様などちっとも思い出せない。
次からはカモは最初から肉に見えるのかもしれないし、
自分の弾があたったものだとまた同じように感じるかもしれないが
それは全然わからないのだった。
今までわたくしは豚や牛の屠畜を見て鹿猟も鹿を解体するのも見た。
目の前で大動物の命がかけらに、肉になっていく工程を何度も見た。
その折々でそれなりに生命について考えてきたつもりだったが、
自分の手で羽根をむしり肉にしてみて感じたのは、
今まで何も見てなかったのかもしれないな、ということである。
今回わかったことが3つある。
ヒトは生命も生きものも作り出せない。
しかしいろいろな目的で他の生きものを殺す。あるいはその恩恵を受けている。
そしてふだんはその事実を忘れていて自分の罪だとは思っていない。
この世にいるものはすべて美しく唯一無二のものである。
それを知りながら殺生をする自分もまた。
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