伊勢神宮に行って神について考えた

2010年10月に出雲大社に行った。遷宮中なので仮宮。だからしめ縄がちっこい。
10月だから神在月で神様がたくさんいらっしゃるに違いないと思ったら、旧暦であった。
出雲の神在月は11月である。いつ行っても「空(くう)」って気がする出雲大社。

出雲大社の裏手にある神魂伊能知奴志神社。通称命主社(いのちぬしのやしろ)。
大國主命よりも古い神様というので行ってみたら、この木の気がすごいのだった。
ってことで木のことしか覚えていません。
鳥取には「因幡の白兎」という神話がある。
出雲に嫁取りに行く兄たちの荷物を持ったオオクニヌシ(以後大國主命)が
ワニを騙して怒らせ皮をむかれたバカなうさぎを助ける話だ。
大國主命はその後無事出雲に到着し、スサノオノミコトの娘をお嫁さんにする。
その他にもたくさんお嫁さんをもらうがまあ、それはどうでもいいか。
ということで、出雲大社は昔から鳥取の子どもの心の近くにある。
海水浴場=白兎海岸=因幡の白兎=大國主命=出雲大社という連想ゲームだ。
しかし国道9号線を延々と島根方面に向かうのは実際には大変なので、
皆あんまり行かない。さらに恋人同士で行くと別れるというジンクスがあり、
地元民はデートでは絶対に行かない。
というのでわたくしは、東京に引っ越してから行った。
3回行ったけど、いつ行っても神の存在は感じられなかった。
出雲大社は、あっけらかんとした大きくて静謐な空間である。
大國主命は荒ぶる神なのではと思うが、気配は感じられない。
その出雲から、鳥取へ向かう途中に大山という霊山がある。
中学・高校と登山させられ、大人になるとその登山がデートになるんだが、
なんか他にすることなかったんかなと今ふと思ったりしたが、
まあ紅葉も景色も空気も原生林もキレイだしいいか。

今年の8月にお礼参りに行ってきました大神山神社。
霊山である大山の荒々しい気そのまま。今回も二日酔いが治ったです。

300円でご神体の側まで近づくことができる気さくな神社、大神山神社。
中は大変美しい文化財らしくてその説明のテープが延々と流れております。
2010年に行った時は雨が降ってたんだけど、手水鉢(結界)を越えたら雨がやみ、
ゴウゴウと風が吹き始め、そりゃもう「人ならぬもの」の気配が満載でした。
冬はスキー場になり冬山も楽しめる鳥取県民にはおなじみの山である。
そこに大神山神社がある。
ここの祭神はオオナムチノミコト(大國主命と同じ)である。
ここはいつも荒々しい何かの気配を感じるが、それが神なのか、
大きな山の気配なのかは不明だ。大山は修験場だからかもしれない。
とにかく何かいる。そしてある場所を通過すると二日酔いが治る。
そこから先は結界の中だとあからさまにわかるのだ。
大神山神社に祀られているオオナムチノミコトは農業の神様でもある。
わたくしは今まで「家庭菜園の当選」をお願いして、2回とも叶った。
参道の入り口にあるお茶屋のおばちゃんが「ここの神様はねえ、
ものすごいご利益があるのよ、アタシには全くないけどね、はははは」と
教えてくれた通り、わかりやすいご利益をいただける神社なのだった。
私の考える大國主命に一番近い「荒ぶる神」の気配がする神社である。
鳥取でもマイナーな神社なので、皆ほとんど知らないんじゃないかなー。
東京で初詣に行くのはずいぶん前から府中の大国魂神社で、
実はここの祭神も大國主命である。偶然にもわたくしは
いつも大國主命にお参りしているのだった。やはし山陰という土地の縁であろうか。
さて、先日、式年遷宮を終えた伊勢神宮に行って来た。

外宮に行ってから内宮に行きなさいというルールを守ってまず外宮に。
えー、これは遷宮前の外宮です。もう神はここにはいらっしゃいません。

こちらは内宮の正宮。天照大御神がおわしますが気配は感じず、
人混みに辟易。こんなに沢山の人の願い事いちいち聞いてられないよね、
神様も大変よねとか友人と話しております。罰当たりです。ううううう。
伊勢神宮に祀られているのは天照大御神である。
彼女は大國主命に「国を譲るように」と命令した太陽の神である。
国譲り自体が無理難題というイメージを持っていたわたくしは
長いこと伊勢神宮には距離をおいてきた。しかし今年は式年遷宮の年である。
次は行けるかどうかわからない。ってことで行ってみたのだった。
すんごいパワースポットと聞いて少しワクワクしていたが、
やはりここも出雲大社に似た、あっけらかんとした静かな空間であった。
何かこうビリビリするパワーなんてことは全然わからなかった。
神がそこにおわす気配も全く感じなかった。旧暦の神無月だから
みんな出雲に行っちゃったのかなあとか考えた。……まさかね。
しかし東京に戻ってきてからふと気がついた。
今まで滞っていた仕事がサクサク進み、なにもかもがすごく捗る。
自分が気づかなかった深部のゆがみというか、まとわりついていた何かが、
きちんと調整され、スムーズに動き始めたような感じだ。
でも調整されたのは肉体じゃない。意識というか、えーと、えーと、あ、
ルドルフ・シュタイナー先生おっしゃるところのエーテル体
(もしかしたらアストラル体もかも)かもしれない。
自分にはとくに天照大御神に真剣なお願いごとがあるわけではなかった。
式年遷宮したきれいな伊勢神宮見たいなー程度である。
中には真剣に何かを祈っている人がいて申し訳ない気もしたが、
伊勢神宮におわす方はそういうことはまったく気にしないようだった。
というより、すべてに無関心なようだった。

東京に帰って「伊勢神宮ガイドマップ」を読んでみたところ(行く前に読め、自分)、
こちらの別宮で具体的なお願いごとをすべしと書いてあったけど後の祭り。ははは。
でもエーテル体の調整をしてもらえたから良し!である。
たぶん人はあの「場」に行くだけでいいのだ。知らない間に
エーテル体(アストラル体も)が調整され、清く正しい人間になれる。
「あふれるわたしのパワーは勝手に持ち帰りなさい。そして日本のために祈れ」
こんな感じであろうか。パワーの受け取り方は千差万別かもしれない。
わたくしの場合は「調整された」のであった。
神は人に無関心なのかもしれない。が、愛してないわけじゃない。
そんなふうに感じたお伊勢参りであった。
※エーテル体とアストラル体
シュタイナー先生は人間は「肉体」「エーテル体」「アストラル体」「自我」という
4つのものでできているとおっしゃっている。
エーテル体は「霊」、アストラル体は「魂」という感じであろうか。んー、ちょっと違うか。
上手に説明できません。すみません。
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