「フリーター世代」の戦争待望論/高橋哲哉
今年の6月に東京で通り魔殺人事件を起こした加藤智大に対して「犯罪は途方もないが、(犯行に及んだ)気持ちはわかる」という若者が少なくない状況について書いたことがある。昨年、ある雑誌に「丸山眞男をひっぱたきたい-31歳フリーター。希望は、戦争」という論文を書き、『若者を見殺しにする国-私を戦争に向かわせるものは何か』という著書でもこのような主張をした赤木智弘に対しても、「極端ではあるが、心情は理解できる」という若者が多かった。
赤木は栃木県に住んでいるフリーターで、彼の1カ月の収入は10万円程度だ。‘就職氷河期’に社会に出るしかなかった‘失われた世代’の一人だ。経済的に自立できないために結婚もできず、現代日本の格差社会の中で非正規雇用労働者として来る日も来る日も屈辱的な思いを抱いて生活している。父親が死ねば「首をつるしかない」と話す彼は、従って自分に機会があるとすればそれは‘戦争’だと主張している。戦争が起きれば社会全体が流動化し、正規雇用労働者が持っている既得権が崩壊して誰もがまずゼロ地点に立たされるため、自分のような‘持たざる者’にも機会が訪れるというのだ。このような‘戦争待望論’が、名分として‘平和国家’を持続的に打ち出している現代の日本で、特に平和運動や護憲運動を担ってきた側から危険な主張だと批判されるであろう点は想像に難くない。実際に日本の左派に属する論者たちは一斉に赤木を批判した。「戦争を起こすことになれば、戦場の最前線に投入されるのはフリーターの若者だ」「貧しいとは言っても死ぬほどではないではないか。戦争よりは今がましだ」などなど。
赤木は反論する。「日本の左派が非正規職雇用の貧困層問題などを考えていないということを明らかにした」「戦争が起きて死んだとしても、兵士として死ぬ方がフリーターとして惨めに死ぬよりもずっとましだ。兵士として死ねば英霊として靖国神社に祀られ、人間の尊厳を認められるが、このままでは犬死するしかない」「僕のような若者がどれだけ絶望的な生活を強いられているのか理解できない日本の左派は、すでに破綻状態だ」などなど。
赤木の視点では「憲法9条(戦争放棄)を守れ」などと主張している日本の左派や護憲派は、安定した収入がある労働者として労働組合などに依存しながら自分たちの‘平和的な’日常を守ろうとしているだけだ。彼らが戦争に反対するのは、既得権を守ろうとしているだけだ。彼が戦後民主主義のオピニオンリーダーだった政治学者、丸山眞男を「ひっぱたきたい」と言ったことは、丸山がそのような平和運動・護憲勢力の象徴だったからだ。
加藤智大と赤木智弘、二人の‘トモヒロ’はどちらも‘失われた世代’に属する若者であり、自分のことを‘人間’として認めてくれない社会に対する絶望から出発し、一方は無差別殺人に、もう一方は戦争待望論に帰着した。これは明らかに現代日本社会の深刻な問題として受け入れなければならないだろう。赤木はもちろん加藤と違って犯罪容疑者ではなく、‘希望は戦争’という主張は真摯ではあっても好戦的ではない。私も彼の主張を受容するのではないが、現在の平和は一部の、すなわち既得権を持つ者たちの平和であるだけで、‘すべての人の平和’ではなく、そのような‘平和’は受け入れられないという主張として理解するならば、そこには重要な真実がこめられていると思う。
高橋哲哉/東京大学教授・哲学
(ハンギョレ 2008年11月18日)