日本の左派と天皇戦犯免責/高橋哲哉
「戦後日本」と天皇制をめぐる話を続けよう。コラムだが論文のようになってしまった点を容赦していただきたい。
2番目のコラムでは、靖国神社と日本の右派勢力-政治家で例えるなら安倍晋三前総理がその典型-は天皇制を最大の拠り所としながらも、未曾有の危機(昭和天皇の戦犯起訴)から天皇制を救った東京裁判を否定するという自己矛盾を抱えていると書いた。今回は、その右派と対立してきた戦後日本の左派•リベラル勢力と、天皇を免責した東京裁判の関係を考えてみよう。
左派•リベラル勢力が考える戦後日本のアイデンティティは、憲法9条が含まれた‘平和憲法’だろう。ところでその平和憲法が到達した道は、天皇免責の影響を避けることができない。当初、戦争と軍事力保有禁止を規定した憲法9条が、天皇を‘日本国’と‘日本国民統治’の象徴だと規定した1条と対を成すことは最近の研究で明らかになっている。天皇制と日本軍、双方が維持されるのならばいつまた‘皇軍’が復活し、脅威となるかわからない。そこでアメリカは、天皇制を維持したとしても、再び脅威にはならないという点を他の連合国に強調するために日本政府に憲法9条を受け入れさせる必要があった。実際にアメリカは、憲法9条を受け入れなければ天皇制の存続は保障できないと日本側を圧迫した。
しかし憲法9条による日本の非武装化は、文字通りの形では実現されなかった。共産主義の脅威を強く感じていた昭和天皇は、新しい憲法で政治的権能をまったく持たない‘象徴’になっても日本防衛の保障を求め、1947年9月に沖縄に関する‘天皇メッセージ’をマッカーサー元帥に送った。それはアメリカに対して、‘沖縄ほか琉球諸島’の‘25~50年、またはそれ以上’にわたる‘軍事占領’を希望するものだった。憲法9条により自らの軍隊である‘皇軍’を失った天皇は、天皇制をアメリカに守ってもらうために沖縄を米軍に捧げたようなものだ。1951年、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約が同時に締結されるなど、戦後の歴史は沖縄に関する天皇メッセージをそのまま履行するかのように展開されてきた。
戦争放棄の憲法9条と平和憲法は、日米安保条約に従って順に共同化されはじめた。安保条約3条により沖縄は事実上、アメリカの軍政下に置かれることになり、米軍は沖縄に極東最大の基地を設置して‘反共の砦’とするという構図が強固になった。ベトナム戦争でも、イラク戦争でも、日本の基地から米軍が出撃した。沖縄は米軍の軍政と、返還後の米軍基地の集中化により犠牲を強いられた。天皇を免責した東京裁判の結果として、日本の非武装化を意味する憲法9条とそれを補完して共同化させた日米安保体制、そして沖縄の犠牲が生じたと言っても過言ではあるまい。安倍前総理は‘平和憲法’を‘戦後体制’の柱だとして攻撃したが、本当の‘戦後体制’とは、まさしく東京裁判の天皇免責から始まった、先に列挙した事項全体だと言えるのではないか?
確かに憲法9条は、戦後日本が国家として軍事行動に出ることを阻止してきた。しかし沖縄では、今も憲法9条が適用されていないようなものだ。また、日米安保条約がアジアでの米軍の戦争を可能にした以上、日本は憲法9条に反する行動をとってきたと言わざるを得ない。日本の左派•リベラル勢力が憲法9条を‘世界の宝’だと自画自賛し、「戦後の平和を守ろう」と叫ぶだけでは天皇免責以下、沖縄を切り捨てた‘戦後体制’から一歩も出ることはできないだろう。
高橋哲哉/東京大学教授・哲学
(ハンギョレ 2008年2月10日)