週末ですから、(書いている私にとっては)軽めに立教大学の李鍾元(イ・ジョンウォン)教授の文章を(勝手に)掲載します。今日のは5月30日のハンギョレ新聞に掲載されたものです。
ちなみに、日本では一般的に“North East Asia”を“北東アジア”と表記していますが、「それは英語に迎合する表現だ」、「アジア人なら“東北アジア”と表記しろ」みたいなことを東大の姜尚中(カン・サンジュン)教授(この方もネットウヨからは「反日サヨ教授、
キイキイ」とよく言われている)が書かれていたので、こちらでは原文どおり、“東北アジア”と表記しました。仕事でだったら“北東アジア”と表記しますが、これは私の俺様ブログなので、自分の好きなようにします。それではどうぞ。
開城工業団地で考えた東北アジア共同体/李鍾元
先週、開城(ケソン)工業団地で興味深い国際会議が開かれた。慶南(キョンナム)大のパク・ジェキュ総長が会長をしている東北亜大学総長協会と韓国大学総長協会が主催した国際シンポジウム「東北アジア共同体構築と大学の役割」という行事で、米・中・ロ・日・モンゴル・台湾および韓国の大学総長が中心となって70人余りが参加した。シンポジウムの初日はソウルで、そして2日目は開城を訪れるプログラムがあった。開城工業団地のこぎれいな会議場で北側の女性職員がサービスする飲み物を飲みながら、国際会議の締めくくりの行事も行われた。
シンポジウム自体ももちろん熱を帯びた内容だったが、その一部が休戦ラインを超えて開城を行き交いながら“分散開催”をしたということに大きな意味があった。筆者を含め外国から参加した代表にとっては一層貴重な経験となった。毎朝、ソウル都心から出勤用のバスが出発するほど韓国では開城工業団地という存在がすでに日常化しているという記事を新聞で読んだことがある。しかし、実際に休戦ラインを超えて会議を開いた経験は、外国からの参加者にとってやはり衝撃的だった。わずか半日程度の時間に二つの異なる世界を往復しながら、朝鮮半島情勢の難しさと可能性を同時に体感することができた。
筆者も開城工業団地を訪れたのは初めてだった。何よりもソウルからこのように近いという事実が、今さらのように外国からの参加者たちを驚かせた。ソウル都心から約60キロ、通関手続きなどをすべて含めても2時間半もかからなかった。バスで走る時間は1時間程度だ。特に幅4キロの非武装地帯は分断半世紀の壁を初めて通過するという感慨を感じる暇もなく、あっと間に通り過ぎていった。開城工業団地は非武装地帯に隣接していた。工業団地から丘を一つ越えて少し行けば開城市街があるという。開城から平壌まで高速道路で2時間もかからない距離だそうだ。開城が軍事的要衝地であるという説明も理解できる。
南北の往来が日常的だという事実も断片的ではあるが垣間見ることができた。南側の税関入国検疫事務所(CIQ)に到着したとき、すでに数十人がいて込み合っていた。工業団地に進出した企業関係者たちだそうだ。好奇心と緊張から、あちこちをうかがう国際会議の参加者たちとは対照的に、慣れた表情で淡々と通過(越境)手続きを待っていた。北側の事務所の手続きも意外と簡単で事務的だった。開城工業団地にいた間、ほとんど緊張感を感じることはできないほど南側の職員と労働者たちが自然に混じりあって仕事をしていた。
国によって参加者たちの反応も多少違った。台湾から来た代表は、中国との合弁が日常的に行われているためか、むしろ休戦ラインをめぐる軍事的対峙状態に関心を見せた。もっとも緊張して複雑な表情を見せていたのは日本側の参加者だった。かなり弱まったとはいえ、北朝鮮バッシングが依然として日常的な日本国内の状況とのギャップのせいだ。
開城工業団地の会議室は、主に投資説明会などに使われている。今回のような国際会議は例外的らしい。しかし、東北アジア各国、特に日本と韓国の若い世代が朝鮮半島の変化と“東北アジア時代”の意味を共に考える場所として教育的に活用されればいいと思った。国際政治は認識に左右される部分が大きく、認識は経験に大きく依存する。朝鮮半島も冷戦を終えようとする韓国の粘り強い努力と共に、その現場をより積極的に知る必要がある。「道が元々あるのではない。人々が歩き始めればそこが道になるのだ」という魯迅の言葉が頭をよぎった。ソウルから開城まではすでに広い道ができている。
李鍾元立教大学教授・国際政治
*参考
「北東」と「東北」(中日新聞/2006年2月4日)