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版画家・藤牧義夫(1911-1935)のことなど

版画家・藤牧義夫(1911-1935)のことなど_a0023387_1655038.jpg今週は遅い夏休みをとっていて、今日は、散歩に出かけることにした。家で昼食をすませてから、まずは、いつもながらの神保町。古本街ざっと見て少しばかり本を買うが、あんまり暑いので1時間くらいで切り上げて、銀座へ。

今日の最大の目的は、八重洲にある画廊『かんらん舎』へ、藤牧義夫の版画「つき」の展示を見にいくことだ。地図で調べておいたから、場所はすぐ発見。しかし、ビルの玄関には展覧会の案内も、画廊の名前さえも出ていなくて、おそるおそるドアを開けて、「侵入」。
画廊主の大谷さんは、1978年に藤牧義夫の版画展を開いて、その後も藤牧の研究を続けてこられた。1999年からは、自分がそのとき開いた藤牧展の作品の多くが何と贋作だった!ことを発見し、今は、『一寸』という小さな同人誌で、藤牧の作品を洗い出し、その贋作がだれによって、いかにつくられたか、その贋作をいかにしてつかまされたか、を徹底的に究明されつつある。その贋作がすでにいくつかの国公立の美術館に収められているのだからなおさらいっそう、第一、藤牧の悔しさを考えれば、この究明をはたすことが展覧会を開いた自分の責任だと考えられているにちがいない。

僕が藤牧を「発見」したのは、1996年。その後、僕なりに藤牧のことを調べていたが、大谷さんには、どうしても一度お会いしたいと思っていた。一度手紙も出したが宛先不明で返ってきたこともある。しかし、願いは念じているものだ、ようやく、今日お会いすることができた。
突然伺ったにも係わらず、10年来の知己の如く、挨拶する暇もなく大谷さんは藤牧版画の魅力とその贋作について僕に語ってくださった。大谷さんの持つ資料や研究の現場も見せてくださり、その精緻で細かな作業と探偵のごとき徹底した調査に心底言葉を失った。真実を探るものは、かくも厳しい道をたどったか。大谷さんの情熱的で舌鋒鋭い語り口から、この追求にほとんど我が人生をかけているのだということが伝わってきた。
さらに、大谷さんは推理小説を地で行く驚くべき新事実を次々に教えてくださった。これらは、これから大谷さんが発表される事柄だからここに書くわけには行かないが、おそらくこの研究が書物となってまとめられたときには、日本の美術版画史は、おおきな書き換えをしないではすまされぬことだろう。
もうこれ以上いては、ご迷惑だろうというころまで、いやいや、そもそも見知らぬ侵入者自体がご迷惑であったろうけど、お話を伺うことおよそ2時間。もう6時前になっていた。

藤牧義夫の名前は広くは知られていない。だって、彼の作品を見ようにも、その画集も出版されていない。都内での個展も国公立美術館では一度もない。しかし、版画の展覧会や、日本の1920-30年代の美術を扱う展覧会では、必ずといっていいほど、彼の作品が展示される。たとえば、今開催中の『日本の版画1931-1940』・千葉市美術館(8月31日~10月3日)にも彼の作品が出ている。ここに出品されている藤牧作品は、本物だよ、と大谷さん。

彼が近代日本の版画家のなかで最も才能あふれる最高の版画家、少なくともその一人であると僕は信じているから、彼のほんとうに天才的なすばらしさを伝えるべく、藤牧のことについては、これから、また、おりにふれてゆっくり書いていくつもりだ。今日は、とにかく大谷さんとの出会いの興奮を記録しておこう。
奇しくも今日は、藤牧義夫が24歳で突然行方不明になった1935年9月2日の夜から数えて69年目(と一日)。彼の魂は、ようやく浮ばれつつあるか! (9月3日深夜記)

大谷芳久氏の藤牧贋作についての関連論文は、次の通り。

雑誌 『近代画説 明治美術学会誌』 第9号(1999年) 「藤牧義夫版画《赤陽》疑義」
同人誌 『一寸』(連絡先/ 鎌倉市材木座1-11-3 森登) 第2号(2000年5月)~第19号(2004年8月) 「残されたひとやま」

藤牧義夫作品のうち、国立近代美術館所蔵作品34点はここで見ることができます。上の写真は藤牧義夫作「白ひげ橋」(1933年)。

by espritlibre | 2004-09-04 00:30 | L藤牧義夫
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