鴎外と太宰の墓
三鷹までわざわざ行くからには、「高島野十郎」展だけでなく、ずっと昔から気になっていた森鴎外と太宰治の墓を見ておきたいと思った。場所はともに、三鷹駅から南へ10分くらいの所にある禅林寺。三鷹通りを歩き出すと、小降りになっていた雨が突然雨脚を早めて、傘をさしていても足元はずぶぬれ、引き返したところでどうせ濡れるのなら同じことと思い切って、人に場所を聞きながらようやくたどり着いた頃には、靴の中まで雨がしみ込んでグチョグチョになってしまった。
鴎外の墓は、最初、隅田川沿い向島にある弘福寺にあったが、寺が関東大震災(1923年)で焼失、1927年にこの禅林寺に改葬された。弘福寺は1933年に再建、昔どおりに復活して今もある。弘福寺は鴎外が生前から好んだ寺であってその遺志によってそこに葬られたが、禅林寺のことは知らなかっただろう。「墓は森林太郎墓の外一字も彫るべからず」と世俗の肩書きを墓に記録することを禁じたあまりにも有名なその遺言どおり、その墓はあった。
太宰は、晩年を三鷹で過ごしこの地で自殺した上に、生前、鴎外の墓のあるこの「小奇麗な」墓地に埋められたら「死後の救いがあるかもしれない」と書いていたのだから、ここに墓があることはふさわしいことなのだろう。太宰の死体が発見された6月19日(奇しくも彼の誕生日でもある)は桜桃忌と呼ばれてこの日の前後には多くのファンが集まるらしいが、僕の訪れた6月18日はどしゃぶりの雨だったから、さすがに人影もなかった。墓前に置かれた桜桃が雨に濡れてきらきらと輝いていた。
ところで驚いたことには、この二人の墓はほんの少し斜めであるが、ほぼ向かい合って立っているのだ。鴎外は1862生ー1922没、太宰は1909生ー1948没、(ああ、二人とも若かったんだねぇ~、鴎外だって60歳で亡くなっている)。鴎外は太宰を知るはずもないが、太宰は鴎外の墓の前に立ったことさえあるわけだ。太宰が鴎外の眠るこの墓地が気に入っていたとしても、しかしいくらなんでも鴎外先生の目の前ではチト煙たくはなかろうか。
(写真は、上は太宰治の、下は鴎外森林太郎の墓)