これが現実だとは受け止められない
しかし、東北地方での被害が序々に伝えられ、その深刻さが明らかになるにつれて僕はだんだん現実感を失い始めた。テレビ画面に繰り返し流される津波の巨大さ、破壊しつくされ廃墟となった町や村の惨状、そしてなによりあまりにも多くの死亡者と命からがら難を逃れた人たちの置かれた状況に、僕はこれは本当に起きていることなのだろうかと言葉なくただ胸が張り裂けるような思いで、呆然とニュースを見ているばかりだった。
それに追い打ちをかけるように原子力発電所の炉心溶融という大惨事が起きた。吹き飛ばされた建屋の映像は押し寄せる津波の映像とともに生涯目にした中で最も恐ろしいものの一つだ。放射性物質が大気中にも海にも大量に撒き散らされるという事態に僕はさらに現実感を喪失してしまった。原発から20-30kmに住む人は住む場所を奪われ難民となり、撒き散らされた放射性物質からは放射能がたえず放たれ続ける。その深刻な影響は時空を超えていったい今後どこまで広がることだろう。
ところが、この「国難」を解決すべき任にある政治の状況もまた惨状。燃えさかる家を前にして誰が火を消すかで、殴り合いのケンカをしているといったありさまだ。終末論的近未来小説を読んでいるつもりでいたら、グロテスクな人物たちの繰り広げるドタバタ滑稽小説に変わっていたというところだ。そこには、低量放射線はカラダにいいとか放言する道化や、これほどの事故が起きてもすぐに原子力発電はぜったい必要だとか繰り返すお化けやらにも事欠かない。こんなことが現に起きていることだと信じられようか。
原発事故後の、ある新聞社の国内世論調査によれば、およその割合で、原発をなくすべきだという人は1割、減らすべきだという人と合わせても4割、現状維持が5割、増やせという人が1割、だという。この数字もまた、僕には悪い夢でも見ているようにしか思えない。
火は今手のつけようのないほど燃え広がり家はまさに焼け落ちようとしているのに、それでもまだ、「繁栄」という札束と財宝にしがみついてそれをなんとか燃え盛る家から持ち出そうとし、またそれができると考える強欲。命なくば何のカネぞ。「繁栄」という虚妄に取り憑かれて「繁栄」を享受してきた大人たちはそれでもよかろう。しかし、子どもを巻き添えにするな。これから後に生まれてくる人たちまで巻き添えにするな。
もうずっとずっと昔、僕は高木仁三郎や広瀬隆の本で原発の危険性を読まされていたのに、うかうかと何も考えず、家は燃えさかっているのになお、それに気づかず遊びにふける「火宅の人」の一員であったのは恥ずべき事実だ。大人の一人として、子どもたちに申し訳の立たぬことだった。先頭に立つのは無理だとしても、せめて最後尾からでも原発のない日が来るのをこの目で見届けたい。