昭和〜平成初期の政治文化では、 スキャンダルが発覚すると—— 「けじめをつける」 「責任を取って辞職」 「国民の信頼を裏切った」 と、自ら退くのが美徳とされていました。 つまり「恥」「面子」「責任」の三点セットがまだ機能していた。 今は昔。 説明すれば済む時代(説明しなくても済む時代) ところが2010年代頃からは、 「法的には問題ない」 「誤解を招いた」 「精査中」 といった言葉で時間稼ぎと記憶の風化を待つスタイルに。 「政治的責任」と「法的責任」を意図的に切り離して、 **“開き直る技術”**が制度化されたようなものです。 1. メディアの分散化 昔はテレビが「国民的な恥」を可視化したけれど、今は情報が拡散しすぎて、スキャンダルもすぐ次に埋もれる。 2. 有権者の慣れ 裏金・不倫・買収・暴言…… ニュースが多すぎて、もはや“驚かない”。 政治家側も「どうせ忘れる」と読んでいる。 3. 責任の希釈化 組織・派閥・秘書・政治資金団体—— 誰が悪いのかを曖昧にして「みんなで分け合う無責任」が成立。 結局、「恥」が制度から抜け落ちた 「法」では裁けなくても、「恥」が人を抑えていた時代がありました。 今はSNSの怒りが“瞬間風速”で燃え上がるだけで、 持続する羞恥の文化がなくなった。 どうしてこうなった? スマホのせい?ネットのせい? それとも?