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回答(4件)
まず秀長が生きていたら、朝鮮出兵という暴挙はどうなっていたか。 秀吉の朝鮮出兵は信長が生きていれば採っていたであろう政策であり、実は歴史の必然では自然な流れとも言えるものだったのです。 歴史はそもそも奴隷制を土台にした古代社会から始まります。そしてやがて戦う集団=武士(騎士)なるものが登場し、主君との契約によってのみ行動するという社会が出現する。いわゆる中世です。 しかし、中世社会はやがて行き詰まりを見せる。全国制覇が進むにつれ恩賞として与える土地がなくなってしまうから。 そこで新たな土地の略奪を目指して海外へと目が向いていきます。そのために航海技術その他のテクノロジーの進化が必須になってくる。この海外進出(富国強兵)と技術革新(殖産興業)の2輪立てで世の中が動いていくのが近代と呼ばれる時代です。 ところが、日本は近代に進む前に独自の動きを見せます。 海外に目を向けるのではなく、国を閉ざして自給自足の経済をつくる。他の国では滅多に見られない、島国特有の歴史形態=近世というものが登場する。 これが江戸時代であります。 そして260年遅れて明治になってようやく近代が始まる。 近代と近世 どちらが良いかの判断はさておき、 秀吉が近代に向かおうとしいていたのは事実です。 ただ日本の国力がそれに耐えうるだけの素質を備えておらず、秀吉自身の判断能力の稚拙さも相まって時期尚早に出ていったため痛い目に遭って惨敗しました。そして近代を挫折した日本は近世へと向かう。 あのまま近代化が進んで行けば日本人そのものが今とはかなり異なっていたと思います。 日本人のメンタリティー、争いを好まず村社会の掟と雰囲気を忖度しながら生きていく農村と、共同体内での義理と人情の世界で「まったりした生き方」をする町人と、その町人に擬態化していった武士階級。 今現在を生きる我々もこのフォーマットに沿って生きています。 これらの基本は江戸時代にできあがった。それ以前の日本人は、武士のみならず農民に至るまで結構好戦的で荒ぶっていて、個人主義的で利己的な、「尖った」民族でありました。それを平坦に均(なら)したのが江戸時代=近世だったのです。 その意味でも本能寺の変は日本人そのものの姿を変革してしまう極めて重要な意味合いを持っていました。 あれがなかったら日本は間違いなく近代化を突き進んでいた。明治がそうだったように。 さて、秀長ですが 彼がもっと長生きしてればどうしてたでしょう。 まず、彼とても近世のようなものを目指していたとは思えない。というか想像すらできなかったでしょう。前例が無いから。 家康だってあの時点では目指してなかったでしょう。近世は江戸幕府成立後、キリスト教の禁止→鎖国という流れがなければ起こらなかったものですから。 秀長も家康も「荒ぶる日本人」であり、覇権主義の洗礼を受けていた人間たちだった。だからやがては近代に向かわざるを得ないことはわかってしたでしょう、信長のように。 ただ、秀吉の立てた出兵計画はあまりに準備が不足過ぎるとて反対したことも確かです。朝鮮の後ろにいる明国の存在をあまりに軽視し過ぎている。 まず明国と利益を分配するような形で進めないといけないのに、まるで他人の別荘に無断で入っていく不良グループのような体で朝鮮に攻め行ったもんだから、「親会社」の支援を受けた朝鮮国に撃退されてしまいました。外交力の決定的な不足。 もし秀長が生きていたなら、もっと巧妙に、家康とも連携して海外進出を実現していった。少なくとも近世という特異な時代は迎えなかっただろうとは思います。(ゆえに日本人の姿ももっと違っていた) 平和を好む人、江戸時代を愛する人(私も実はそうですが)にとっては、秀長の不在・秀吉の失敗・近世の到来という歴史の流れは歓迎すべき偶然だったと思います。
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その通りだと思います。秀吉の死後も秀長に生きていられたら家康はかなり困ったと思います。まず豊臣政権が文治派と武断派に分裂するのを避け彼の基に結束したでしょう。また秀吉の所領を彼が引き継ぎ豊臣の軍事力の散逸を防げたでしょう。さらに秀長は諸大名から信頼が厚く家康方に鞍替えすることを防ぐことが出来たでしょう。従って関ケ原は起こりようがなく、そのうちに秀頼が立派に成人し家康は老衰で死にボンクラな秀忠が徳川を継いで関東の一大名に過ぎなくなり江戸幕府はできなかった。