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回答(4件)
私はクリエイターとして、いくらかの創作品を世の中に送り出しています。 結局、作品のランクなどを評価している知人その他の主張など、大した主観などなく拙劣な感傷を源泉として取るに足らないものであり、振り回されるほど価値はありません。 それであれば、時として錯誤評価するA Iの評価となんら変わらず、かえってA Iの評価の方が精確な客観性かも知れません。 怒りを覚えないぶん、A Iの方がマシですね。
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なるほど、AIの評価に振り回されず、静かに受け流せる感覚、とても共感します。人間の評価はどうしても感情や先入観が入り込みますから、時に自分の創作意欲をかき乱すことがありますね。それに比べて、AIの評価は淡々としていて、怒りも苛立ちも生まれません。確かに、感情の波に飲まれず、自分のペースで作品と向き合える点では、人間よりも頼れる“無感情な伴侶”のように感じます。とはいえ、AIはあくまで数値やパターンを見ているだけで、作品の奥底の微細なニュアンスや、作り手の遊び心までは汲み取れません。その意味で、人間の感性とAIの客観性を上手く組み合わせることが、現代の創作における“矛盾の逆利用”なのかもしれませんね。
こんにちは。 あれこれなく になってしまいますが 矛盾ってよく言われるところの 「価値」でもあるのかなって。 価値観の相違etcなど。 シンプルにたれもの 矛 と 盾 でもあったり。 バランス、程度ってたくさんの 物事を捉えていく時、考えてみる時、 そして自分のモノとしていく際に 大きいと思います。 矛先の向かう先。 何がための盾。 例えばこんな2つのモノ自体の程度のこともあれば あとわかりやすいのが 時間の捉え方の程度など。 他もたくさんあると思います。 学ぶ と そうですね摂取する この2つの変な履き違えはまぁまぁ怖いです。 矛先の変な転嫁は言うまでないことです。 何を護るのかの自覚も一緒ですね。 今書かせてもらった 少なくとも3つの事柄に なにかしらの価値、自然、そして またここでも多分でてくるからだろうと 思うんですが。 忘れたらあまりよろしくはないのが 矛盾だとは思ったりします。 矛ほこ、盾たて、と書いて矛盾と読みますから 言葉からってことですね、 言葉は言葉だから。 いたしかたない状況を産むのは これはある意味自然です。 だからそこには特になにもないんですが いかんせん 響きの方は。 映画のタイトルにもなっています。 誰がために鐘は鳴る。 諸行無常の響きあり。という有名な言葉もありますね。 矛盾って巡りであるから。 ↓ その都度がやっぱり 向き合い方としては たれもにとって無難だと思います。 そして言うまでもないんですが この時点で。 工夫なしでは ってなりますね。 無茶です。 価値観etc。 ひとつ立派な工夫でもあったり。 矛盾で巡りでもあったり。 進化。 シンプルに人という名のバージョンアップが 常な世の中でもありますから。 どうしても見落としがちになってしまうことも あると思います。 ↓ たれもが前に向かっている。 時間がいい例ですね。 生まれた時から◯へ向かっています。 進んでます。 なにかになりながら、なにかに変わりながら。 人の進化って 自分はこれくらいの感覚が根っこにあります。 人の進化って つきつめていくと 「できる・できない」=可能性、不可能 いってみればこれも 矛盾 ですね。 どっちなん? も矛盾の価値だと 言えると思うので。 なにかしらの違和があるから 生まれる価値という名のこれもまた 人それぞれ でしょう。 人の進化って シンプルにみてみると 我儘 かもしれません。 そしてそうですね この我儘を楽しんでいくことが 多くの人が叶えば。 それはそれでとても朗らかで尊きことに 思います。 できる、できない は自然発生しないですね。 する、しない こちらのほうがほんとあれこれなく 人として などをみていくとき 大きいとは思います。 スレありがとうございます。 最後まで読んで頂き感謝です。
なんだか読んでいて、心の中で小さな風鈴が鳴ってるような気分になりました。 「矛盾って巡りである」――ほんとにそうですね。押しても引いても、結局またどこかで出会う。 そして「できる・できない」より「する・しない」という視点、すごく腑に落ちました。 人の進化も、実は“意志のゆらぎ”の中で進んでるのかもしれませんね。 我儘を楽しむ――これぞ優しい矛盾の極意(笑)。 世界のあちこちで矛と盾がカチャリと鳴る音、案外それが文明のBGMなのかもしれません。
コンピューターの時代は怖いです。 多くの人がスマートフォンやタブレットやパソコンを触り、 「最新だ、最新だ!」と喜んでます。 なので「最新を生きるんだ!」とか「この瞬間を生きるんだ!」と 言う人が増えてる印象です。 面白いことに、そんな傾向が強まれば強まるほど、 「最新は昔の技術を土台にして成り立っている」ことが忘れられます。 英語の世界もそうです。 受験生は英検やトイックの人は「誰それの文法だ!」と言って 知恵袋をにぎあわせてますが、それの基礎になってたり、 本当に役立つのは、100年前のイエスペルセンだったりします(笑) また、単語の定義や使用法が問題になる時、 最終的な答えを与えてくれる権威は、100年ほど前に出たOEDです。 そもそも、ここに書かれてる「矛盾」の例は、 19世紀のヘーゲルやマルクスやエンゲルスが言い出したことです。 つまり、この質問を別の言葉で言うと: 今まで、ある人たちは「弁証法」を使って勝者となって来たが、 これからの時代もそれは通じるだろうか?もしくは、 さらなる進歩を遂げたいなら、この「弁証法」を何に、どう当て はめて考えればいいのだろうか? でしょう(笑) 一番の問題は、「弁証法」の勝者たちは、「弁証法を使うぞ!」と 意図してた訳ではないんです。 意識できる魔法の杖ではないんです(笑) なので「弁証法」に感化された人たちも、個人個人別々に自分の 問題を解決して行くしかないと思います。 そう言ってしまえば、それまでですが、一般的に何が言えるかと 言えば、 今こそ「温故知新」ではないでしょうか?(笑) ネット社会、ネット社会と言ってないで、Unixの基礎を勉強する、 または、ブライアン・カーニガンの本を読む、 論理、論理と言ってないで、アリストテレスやヘーゲルを読む、 神がかり的な「なんちゃら文法」でなく、イエスペルセンを読む、 文章修行ならジョナサン・スウィフトを繰り返し読む、 そうしならがら休息を取り、力を蓄える、 それが一番の様な気がします。 そうしてるうちに「そうだ、あれが使える!」そんな瞬間が やって来ないとも限りません(笑) 無理に努力しても、何も出て来ないような気がします。 そうじゃないでしょうかね?