2010・11・17(水)フランツ・ウェルザー=メスト指揮クリーヴランド管弦楽団
サントリーホール 7時
ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、武満徹の「夢窓」、ブルックナーの「第7交響曲」というプログラム。アンコールは無し。
言っちゃあなんだけれど、もし今回ウェルザー=メストがウィーン・フィル公演(9日)に引っ張り出されることなく、このクリーヴランド管の公演のみを指揮する当初のスケジュールが守られていたなら、おそらく彼は、オーケストラを均整の取れた美音に仕上げることの得意な指揮者だ――という評価が日本で定着することになったかもしれない(あくまで私の勝手な想像である)。
それほど今夜のクリーヴランド管は、バランスの良い、昔ながらの美しい音を出す立派なオーケストラであることを誇示していたのであった。
金管が最強奏で咆哮する際には猛々しい響きも聴かれたが、そういう時にさえも、均衡と滑らかさを失わない音色が保たれているのだ。ブルックナーの中間2楽章には、まさにその典型的な良さが聴かれたであろう――第2楽章のすべて、第3楽章のスケルツォの1回目の演奏といったような個所で。
ただウェルザー=メストの指揮、それはいいのだが、いつもながら情感や陰翳や余韻に乏しいのが、私にはどうも不満だ。
「牧神の午後への前奏曲」はオーケストラのふくよかな音色もあって、悪くはなかった、と思う。
そこから武満徹の「夢窓」に続く選曲の流れもいいアイディアだと思うのだが――長い舞台転換さえなければもっと良かったのだが、致し方ない――、武満の音楽に特有の「逍遥」や「夢幻」といったものがこうあっさりと棚上げされてしまっては、作品自体がえらく単調な感じになってしまうのではないか?
これまで外国人指揮者が手がける武満作品には、日本人指揮者によるそれと異なった骨太な構築性も聴かれることが多く、それはそれで面白いと私は常々思っていたのだが、この「夢窓」のような曲想のものにおいては、少々事情も異なる。
まあしかし、われらが世界に誇る大作曲家・武満徹の作品を、ウェルザー=メストとこの大オーケストラが日本公演で取り上げてくれたことについては、大いに感謝すべきだろう。
その意味で私も、3回のカーテンコールにはずっと拍手を続けていた。
休憩後の「ブル7」。均整を保った美音の中にも、何か一種の無表情さが感じられてならない。第2楽章第2主題など、先日のスクロヴァチェフスキと読売日響が聴かせた精神に食い入ってくる演奏(10月16日)に比べると、鳴っている音楽は、どうも陶酔とは無縁のものだ。
ウェルザー=メストという人、これまでチューリヒ歌劇場の「ばらの騎士」(07年日本公演)、ザルツブルクでの「ルサルカ」(クリーヴランド管、08年8月20日)、ウィーンでの「指環」「タンホイザー」など数多く聴いて来たが、その音楽づくりの特徴は、レパートリーによってかなりムラがあるようだ。
それにウィーンのオケ相手の演奏(国立歌劇場、演奏会でのフィルハーモニー)の場合だけ、何故あんなに荒っぽくなるのか。未だに理解できぬ。
今夜のカーテンコールは、クリーヴランド管がなかなか舞台から引き上げないこともあって、5分以上にもわたる長さ。しかしそのあと、ウェルザー=メストには、ソロ・カーテンコールが1回、贈られた。1週間前のウィーン・フィルとの演奏会と違って、今日は良かったよ!という聴衆の反応だろう。彼も嬉しかったのでは?
ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、武満徹の「夢窓」、ブルックナーの「第7交響曲」というプログラム。アンコールは無し。
言っちゃあなんだけれど、もし今回ウェルザー=メストがウィーン・フィル公演(9日)に引っ張り出されることなく、このクリーヴランド管の公演のみを指揮する当初のスケジュールが守られていたなら、おそらく彼は、オーケストラを均整の取れた美音に仕上げることの得意な指揮者だ――という評価が日本で定着することになったかもしれない(あくまで私の勝手な想像である)。
それほど今夜のクリーヴランド管は、バランスの良い、昔ながらの美しい音を出す立派なオーケストラであることを誇示していたのであった。
金管が最強奏で咆哮する際には猛々しい響きも聴かれたが、そういう時にさえも、均衡と滑らかさを失わない音色が保たれているのだ。ブルックナーの中間2楽章には、まさにその典型的な良さが聴かれたであろう――第2楽章のすべて、第3楽章のスケルツォの1回目の演奏といったような個所で。
ただウェルザー=メストの指揮、それはいいのだが、いつもながら情感や陰翳や余韻に乏しいのが、私にはどうも不満だ。
「牧神の午後への前奏曲」はオーケストラのふくよかな音色もあって、悪くはなかった、と思う。
そこから武満徹の「夢窓」に続く選曲の流れもいいアイディアだと思うのだが――長い舞台転換さえなければもっと良かったのだが、致し方ない――、武満の音楽に特有の「逍遥」や「夢幻」といったものがこうあっさりと棚上げされてしまっては、作品自体がえらく単調な感じになってしまうのではないか?
これまで外国人指揮者が手がける武満作品には、日本人指揮者によるそれと異なった骨太な構築性も聴かれることが多く、それはそれで面白いと私は常々思っていたのだが、この「夢窓」のような曲想のものにおいては、少々事情も異なる。
まあしかし、われらが世界に誇る大作曲家・武満徹の作品を、ウェルザー=メストとこの大オーケストラが日本公演で取り上げてくれたことについては、大いに感謝すべきだろう。
その意味で私も、3回のカーテンコールにはずっと拍手を続けていた。
休憩後の「ブル7」。均整を保った美音の中にも、何か一種の無表情さが感じられてならない。第2楽章第2主題など、先日のスクロヴァチェフスキと読売日響が聴かせた精神に食い入ってくる演奏(10月16日)に比べると、鳴っている音楽は、どうも陶酔とは無縁のものだ。
ウェルザー=メストという人、これまでチューリヒ歌劇場の「ばらの騎士」(07年日本公演)、ザルツブルクでの「ルサルカ」(クリーヴランド管、08年8月20日)、ウィーンでの「指環」「タンホイザー」など数多く聴いて来たが、その音楽づくりの特徴は、レパートリーによってかなりムラがあるようだ。
それにウィーンのオケ相手の演奏(国立歌劇場、演奏会でのフィルハーモニー)の場合だけ、何故あんなに荒っぽくなるのか。未だに理解できぬ。
今夜のカーテンコールは、クリーヴランド管がなかなか舞台から引き上げないこともあって、5分以上にもわたる長さ。しかしそのあと、ウェルザー=メストには、ソロ・カーテンコールが1回、贈られた。1週間前のウィーン・フィルとの演奏会と違って、今日は良かったよ!という聴衆の反応だろう。彼も嬉しかったのでは?
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メストのブルックナー、予想以上でした。清涼で、シベリウスのような響き。金管の抜けの良さ。(読売は見習え)。
東条さんの苦手なブロムシュテットタイプですが…。エモーショナルな雄叫びや、エスプレッシーヴォを好む人には淡泊に聴こえるかも。