2024-12

2010・11・6(土)
インゴ・メッツマッハー指揮新日本フィルハーモニー交響楽団の
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」

   すみだトリフォニーホール  2時

 何とも激烈な、物凄い演奏であった。この曲が如何に音響的に狂気じみたものであるか、今日ほどそれを痛感させられたことはない。
 だがその狂気は、放縦とか乱雑とかによるものではなく、明らかにメッツマッハーの意図的な設計によって生れたものであることが感じられる。つまり、新日本フィルも巧かったということだ。

 総じてリズムは明晰で、きりりと歯切れがいいが、しかしすべて強烈だ。
 第2楽章(スケルツォ)などでは、怪獣的な迫力をも感じさせる。あたかも一糸乱れぬ恐怖の軍靴の響きの如くである。
 かつてヘンリー・A・リーが「この曲を聴くと世界が軍事色に包まれてゆくような印象にとらわれる」と書いていた(「異邦人マーラー」音楽之友社、渡辺裕訳)。「そんな聴き方があるものか」と当時は思ったものだが、このメッツマッハー指揮する演奏の第2楽章のさなか、突然その一文が頭の中をよぎったのであった。

 彼は次の第3楽章(アンダンテ・モデラート)にアタッカで入った。もしかしたらこの2つの楽章を「影と光」あるいは「暗黒と光明」「闘争と平安」といった意味で捉えたのかなとも思ったが――メッツマッハーの感覚の中にそうした観念的な解釈があったかどうか。
 少なくとも次の第4楽章の演奏を聴くと、そうとも考えにくいものがある。

 そのフィナーレは、鉄骨建築の如く強固で揺るぎない構築の演奏で、音響はまさに乾いた鋭い怒号絶叫の連続。2度のハンマーも「鈍く轟く音」ではなく、鋭角的な打撃音である。
 新日本フィルが最後までこの緊張と力感を保持したのにはつくづく感服するが、私の方は、正直言って、もう展開部の途中あたりから辟易してしまった。こう終始一貫して咆哮されてはたまらない。

 そもそもこの第4楽章は、こんな演奏でよかったのか? 
 この音楽は本来、もっと精妙で複雑な起伏があるべきではなかったか? たとえば絶望の淵から這い上がろうとしてはその都度抗し難い運命の暴力(ハンマー)に叩きのめされ、ついに再起不能に陥るという、精神の苦悩を象徴しているはずのものではなかろうか?
 かように音響的なエネルギーだけで押し切ろうとする演奏は、いかがなものかと思う。

 それにしても、メッツマッハーという指揮者は、かなりのクセモノである。

コメント

えらい変貌ですね。

日曜に聴きましたが、アグレッシヴ、怒涛の豪演にびっくり。ハンブルク時代はもとよりウィーンのムツェンスクやディオニュソスでは、もっと精妙にコントロールしていたように思いますが…。今回だけこうなのか、曲目のせいか、来年また客演するのでどんな指揮をするのか興味深い。

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