2010・6・24(木)新国立劇場創作委嘱 池辺晋一郎:「鹿鳴館」初演
新国立劇場中劇場 6時30分
三島由紀夫の戯曲を原作に、池辺晋一郎が作曲した新作オペラ。
力作だということは充分理解できる。
だが、日本の創作オペラが昔から常に抱えて来た問題――長く引き延ばされて発音される言葉、日本語の抑揚とは全く異なる不自然な音程の跳躍など――は、やはり今回も解決されていない。
それに、言葉を支えるオーケストラ・パートは、それぞれに応じてその都度多彩な響きを生んでいるのだが、それらが大きくドラマ全体の流れと起伏を構成するという形になっていないので、常に断片的な音楽が延々と続いて行くような印象を与えられる。正直いって、90分におよぶ長さの第1部(続けて演奏される第1・2幕)は、気分的に些かもたれるものであった。
しかし、ストーリーが緊迫の度を増す第2部(第3・4幕 約70分)になると、音楽もだいぶ変わって来る。
清原久雄(経種廉彦)と大徳寺顕子(幸田浩子)が愛を語らう場面では極度に甘美(!)な音楽が流れ、また影山伯爵(黒田博)が夫人・朝子(大倉由紀枝)への嫉妬も秘めて進める、政敵の清原永之輔(大島幾雄)への暗殺計画が展開するにしたがい、凶暴な色合いを加えた音楽が連続して流れるようになる。
それは多分、作曲者の作戦だったのだろう。ワーグナーの「ラインの黄金」と「ヴァルキューレ」との関係のように、第1部を「序」、第2部を「破・急」と看做すべきなのかもしれない。
第2部ではワルツが織り込まれるが、これはあたかもラヴェルの「ラ・ヴァルス」のように、デフォルメされた、かなりグロテスクな色合いのものである。ここに、作曲者のこの物語に対する考えが具体的に出ているだろう。ただし音楽はすべて、この作曲者らしく、極度に非「前衛」的な性格のものだ。
沼尻竜典は、東京交響楽団を指揮して、この音楽を、出来得る限り鋭角的に響かせたのではないかという気がする。しかも、第2部冒頭の愛の場面では思い切り甘く――R・シュトラウスばりに――響かせ、その他の部分との対比を創り出したあたり、彼のオペラ指揮もいよいよ巧味を加えているなという感。
演出は鵜山仁。さすがにこういう現代演劇的なテリトリーになると、先日観た「カルメン」などとは桁違いの切れ味を示す。
群衆としてのコロスの動かし方にはもう一工夫あってもいいとは思うが、アイディアとしては優れたものだろう。
特に、百鬼夜行的な虚飾の世界たる「鹿鳴館文化」を描くため、夜会場面では仮面を付けた群集にグロテスクな円舞を展開させた発想は納得が行く。そこにはまるで、かつてクプファーが演出した「さまよえるオランダ人」第3幕の舞踏のような、怪奇な雰囲気が生れていた。登場人物自らが言う「たとえ猿の踊り(=西洋への猿真似)と言われようと、われわれはやらねばならぬ」のイメージにはぴったりだろう。
歌手陣は、脇役を含めた何人かに過度のヴィブラートが聞かれ、日本語の歌詞に対して著しい違和感を生んだが、主役たちは概して好演であった。
その中でも、やはり黒田博が抜きん出た貫禄と風格だ。女中頭(永井和子)に迫るあたり、あるいは久雄を威嚇するあたり、あるいは朝子夫人との愛憎の場など、歌唱も演技も、充分に迫力があった。
なお今回の公演では、Bキャストに与那城敬(影山伯爵)腰越満美(朝子)宮本益光(清原)安井陽子(顕子)ら、私の注目する有望な若手が顔をそろえていた。こちらも聴きたかったのだが、スケジュールが合わず残念。
カーテンコールの最後に、舞台後方に故・若杉弘氏の遺影が映し出され、作曲者と出演者全員がそれに拍手を贈るという場面があった。
この委嘱企画が若杉氏によって発案されたこと、この作品が今シーズン最後の上演曲であること、そしてこれが若杉氏の芸術監督としての任期最後のシーズン(健在であればさらに続いたであろう)であること――などを考えれば、それは適切な趣向であったろう。私の世代の人間からすれば、それは思わず目がジンとなるような瞬間だった。
9時45分終演。
三島由紀夫の戯曲を原作に、池辺晋一郎が作曲した新作オペラ。
力作だということは充分理解できる。
だが、日本の創作オペラが昔から常に抱えて来た問題――長く引き延ばされて発音される言葉、日本語の抑揚とは全く異なる不自然な音程の跳躍など――は、やはり今回も解決されていない。
それに、言葉を支えるオーケストラ・パートは、それぞれに応じてその都度多彩な響きを生んでいるのだが、それらが大きくドラマ全体の流れと起伏を構成するという形になっていないので、常に断片的な音楽が延々と続いて行くような印象を与えられる。正直いって、90分におよぶ長さの第1部(続けて演奏される第1・2幕)は、気分的に些かもたれるものであった。
しかし、ストーリーが緊迫の度を増す第2部(第3・4幕 約70分)になると、音楽もだいぶ変わって来る。
清原久雄(経種廉彦)と大徳寺顕子(幸田浩子)が愛を語らう場面では極度に甘美(!)な音楽が流れ、また影山伯爵(黒田博)が夫人・朝子(大倉由紀枝)への嫉妬も秘めて進める、政敵の清原永之輔(大島幾雄)への暗殺計画が展開するにしたがい、凶暴な色合いを加えた音楽が連続して流れるようになる。
それは多分、作曲者の作戦だったのだろう。ワーグナーの「ラインの黄金」と「ヴァルキューレ」との関係のように、第1部を「序」、第2部を「破・急」と看做すべきなのかもしれない。
第2部ではワルツが織り込まれるが、これはあたかもラヴェルの「ラ・ヴァルス」のように、デフォルメされた、かなりグロテスクな色合いのものである。ここに、作曲者のこの物語に対する考えが具体的に出ているだろう。ただし音楽はすべて、この作曲者らしく、極度に非「前衛」的な性格のものだ。
沼尻竜典は、東京交響楽団を指揮して、この音楽を、出来得る限り鋭角的に響かせたのではないかという気がする。しかも、第2部冒頭の愛の場面では思い切り甘く――R・シュトラウスばりに――響かせ、その他の部分との対比を創り出したあたり、彼のオペラ指揮もいよいよ巧味を加えているなという感。
演出は鵜山仁。さすがにこういう現代演劇的なテリトリーになると、先日観た「カルメン」などとは桁違いの切れ味を示す。
群衆としてのコロスの動かし方にはもう一工夫あってもいいとは思うが、アイディアとしては優れたものだろう。
特に、百鬼夜行的な虚飾の世界たる「鹿鳴館文化」を描くため、夜会場面では仮面を付けた群集にグロテスクな円舞を展開させた発想は納得が行く。そこにはまるで、かつてクプファーが演出した「さまよえるオランダ人」第3幕の舞踏のような、怪奇な雰囲気が生れていた。登場人物自らが言う「たとえ猿の踊り(=西洋への猿真似)と言われようと、われわれはやらねばならぬ」のイメージにはぴったりだろう。
歌手陣は、脇役を含めた何人かに過度のヴィブラートが聞かれ、日本語の歌詞に対して著しい違和感を生んだが、主役たちは概して好演であった。
その中でも、やはり黒田博が抜きん出た貫禄と風格だ。女中頭(永井和子)に迫るあたり、あるいは久雄を威嚇するあたり、あるいは朝子夫人との愛憎の場など、歌唱も演技も、充分に迫力があった。
なお今回の公演では、Bキャストに与那城敬(影山伯爵)腰越満美(朝子)宮本益光(清原)安井陽子(顕子)ら、私の注目する有望な若手が顔をそろえていた。こちらも聴きたかったのだが、スケジュールが合わず残念。
カーテンコールの最後に、舞台後方に故・若杉弘氏の遺影が映し出され、作曲者と出演者全員がそれに拍手を贈るという場面があった。
この委嘱企画が若杉氏によって発案されたこと、この作品が今シーズン最後の上演曲であること、そしてこれが若杉氏の芸術監督としての任期最後のシーズン(健在であればさらに続いたであろう)であること――などを考えれば、それは適切な趣向であったろう。私の世代の人間からすれば、それは思わず目がジンとなるような瞬間だった。
9時45分終演。
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