2009・5・7(木)新国立劇場
ショスタコーヴィチ:「ムツェンスク郡のマクベス夫人」
新国立劇場(3日目公演)
指揮する予定だった若杉弘は、病気のため降板している。昨シーズンには「軍人たち」と「黒船」という、いかにも彼らしいプログラムを立て続けに指揮して大きな成果を挙げ、その勢いを駆って今年はこの「マクベス夫人」や「修善寺物語」を指揮していく予定だったのだ。さぞかし残念だったろうと思う。なんとか復帰できるよう、切に祈りたい。
しかし、代役として指揮を執ったロシアの指揮者ミハイル・シンケヴィチは、なかなかよい手腕を備えている人だ。マリインスキー劇場で重要なポストをつとめているという人だから、経験も充分に積んでいるのだろう。非常に引き締まった音楽を創る。東京交響楽団を豪快に鳴らし、ショスタコーヴィチの音楽が持つ荒々しいエネルギーを引き出した。
欲を言えば、響きに陰翳が乏しく、作品が持つ悲劇性、魂の慟哭――といった要素に欠けるきらいはあるのだが、日本のオーケストラとは初顔合わせのため呼吸もまだ万全でないだろうから、止むを得まい。
東京響は例のごとく、良い演奏をした。今回のコンサートマスターは、ロシア出身のグレブ・ニキティンだったそうで、彼もやりがいがあっただろう。
音楽面ではかように、比較的満足できる水準だったのだが――舞台の方は残念ながら、何とも「締まり」がない。
主役も脇役も、動きに緊迫感が不足し、リアリティに欠け、だらだらした演技に見えてしまうのだ。
特にセルゲイ(ヴィクトール・ルトシュク)の、情事が発覚して責められる場面をはじめ、全篇にわたる切迫感のない演技は、一体どういうことなのだろう。
カテリーナ・イズマイロワ(ステファニー・フリーデ)にしても、追いつめられ破滅して行く悲劇の女としての表現が、顔の表情にも身体の動きにも乏しい。イズマイロフ家の使用人たちを見ていても、ドラマの中心点に向けて集中していくような演技が感じられないのである。
このリチャード・ジョーンズの演出、私はロンドンでの上演を観ていないので何とも言えないのだが、ローレンス・オリヴィエ賞の最優秀オペラ賞を得たというくらいだから、まさかこんな程度のものではないだろう。本人が来日して自ら演出に当っていたなら、もう少し締まった舞台になったのではないかという気がするのだが、以て如何と為す?
カテリーナがソニェートカを急流に突き落とし、自らも一緒に身を投げるというラストシーンも、この演出ではプロンプターのすぐ傍の位置で彼女をセリにゆっくりと押し沈めるという手法が採られるのだが、これでは「一瞬の悲劇」という緊迫度が皆無で、間が持たない。ただこれは、解釈の問題だろうが。
なお、舞台美術はジョン・マクファーレン。壁を多用した、圧迫感のある舞台だ。この3方の壁が反響板の役割を為し、歌手の声を客席に向けて大きく響かせるのに役立っていただろう。何せ大編成のバンダも加わっての、新国立劇場としては「アイーダ」を凌ぐ空前の大音響を出したオーケストラだったから、それに負けないように歌手を助けられたわけだ。
バンダは下手側バルコン・ロジェに配置され、時に舞台上に歌手たちに交じって登場する(これはあまり意味があるとは思えない――特に演出が徹底していない場合には)。ボロを着た男が警察へ注進に突っ走る時の間奏曲の個所では、舞台前面に一列に並んで吹く。かつてマリインスキー劇場で、ゲルギエフがこの個所だけオーケストラ・ピット全体を上昇させて演奏し、すごい迫力を出していたが、それに似たアイディアだろう。
歌手陣で良かったのは、うるさい舅ボリスを歌い演じたワレリー・アレクセイエフの重厚さ(老囚人との2役だったが、こちらは少し危なかった)。それと、ボロ服の男役の高橋淳の達者な演技。またソニェートカ役の森山京子も、カテリーナを向うに回しての嫌がらせの演技に巧いところを見せた。
新国立合唱団も、演出のせいで演技は中途半端だったものの、声楽面では非常に力強いものがあった。
余談ながら、近年はこの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」のみがもてはやされ、ショスタコーヴィチがのちに改訂した「カテリーナ・イズマイロワ」の方はほとんど忘れられた存在になっているが、後者の方にもすばらしい音楽が数多く聴かれるのだということを私は主張したい。
前者はセックス場面の描写において露骨で――つまり「優れて」おり、国家権力により弾圧された作品であるがゆえに偉大なのだ、という意見を述べる人が多いが、実際はそんなに単純に片づけられるものではない。
たとえば改定版では、最後の老いた囚人の歌が原典版よりも長くなっており、そこには「なんと俺たちの人生は暗いことか! 人間はこんなことのために生れて来たのだろうか!」という歌詞が追加され、それは流刑囚の合唱の上にひときわ高く歌われて、絶望的な悲劇感を強調しているのである。これこそ、国家権力にがんじがらめにされた作曲者が、心底から叫びたかったことなのではあるまいか?
このオペラを、ブルックナーの交響曲並みに原典版と改定版の「折衷版」で上演することはできないのかな、などと私は時折考えるのだが、まあ、やっぱり通用しない考えでしょうね。
☞グランド・オペラ 2009年秋号ステージ評
指揮する予定だった若杉弘は、病気のため降板している。昨シーズンには「軍人たち」と「黒船」という、いかにも彼らしいプログラムを立て続けに指揮して大きな成果を挙げ、その勢いを駆って今年はこの「マクベス夫人」や「修善寺物語」を指揮していく予定だったのだ。さぞかし残念だったろうと思う。なんとか復帰できるよう、切に祈りたい。
しかし、代役として指揮を執ったロシアの指揮者ミハイル・シンケヴィチは、なかなかよい手腕を備えている人だ。マリインスキー劇場で重要なポストをつとめているという人だから、経験も充分に積んでいるのだろう。非常に引き締まった音楽を創る。東京交響楽団を豪快に鳴らし、ショスタコーヴィチの音楽が持つ荒々しいエネルギーを引き出した。
欲を言えば、響きに陰翳が乏しく、作品が持つ悲劇性、魂の慟哭――といった要素に欠けるきらいはあるのだが、日本のオーケストラとは初顔合わせのため呼吸もまだ万全でないだろうから、止むを得まい。
東京響は例のごとく、良い演奏をした。今回のコンサートマスターは、ロシア出身のグレブ・ニキティンだったそうで、彼もやりがいがあっただろう。
音楽面ではかように、比較的満足できる水準だったのだが――舞台の方は残念ながら、何とも「締まり」がない。
主役も脇役も、動きに緊迫感が不足し、リアリティに欠け、だらだらした演技に見えてしまうのだ。
特にセルゲイ(ヴィクトール・ルトシュク)の、情事が発覚して責められる場面をはじめ、全篇にわたる切迫感のない演技は、一体どういうことなのだろう。
カテリーナ・イズマイロワ(ステファニー・フリーデ)にしても、追いつめられ破滅して行く悲劇の女としての表現が、顔の表情にも身体の動きにも乏しい。イズマイロフ家の使用人たちを見ていても、ドラマの中心点に向けて集中していくような演技が感じられないのである。
このリチャード・ジョーンズの演出、私はロンドンでの上演を観ていないので何とも言えないのだが、ローレンス・オリヴィエ賞の最優秀オペラ賞を得たというくらいだから、まさかこんな程度のものではないだろう。本人が来日して自ら演出に当っていたなら、もう少し締まった舞台になったのではないかという気がするのだが、以て如何と為す?
カテリーナがソニェートカを急流に突き落とし、自らも一緒に身を投げるというラストシーンも、この演出ではプロンプターのすぐ傍の位置で彼女をセリにゆっくりと押し沈めるという手法が採られるのだが、これでは「一瞬の悲劇」という緊迫度が皆無で、間が持たない。ただこれは、解釈の問題だろうが。
なお、舞台美術はジョン・マクファーレン。壁を多用した、圧迫感のある舞台だ。この3方の壁が反響板の役割を為し、歌手の声を客席に向けて大きく響かせるのに役立っていただろう。何せ大編成のバンダも加わっての、新国立劇場としては「アイーダ」を凌ぐ空前の大音響を出したオーケストラだったから、それに負けないように歌手を助けられたわけだ。
バンダは下手側バルコン・ロジェに配置され、時に舞台上に歌手たちに交じって登場する(これはあまり意味があるとは思えない――特に演出が徹底していない場合には)。ボロを着た男が警察へ注進に突っ走る時の間奏曲の個所では、舞台前面に一列に並んで吹く。かつてマリインスキー劇場で、ゲルギエフがこの個所だけオーケストラ・ピット全体を上昇させて演奏し、すごい迫力を出していたが、それに似たアイディアだろう。
歌手陣で良かったのは、うるさい舅ボリスを歌い演じたワレリー・アレクセイエフの重厚さ(老囚人との2役だったが、こちらは少し危なかった)。それと、ボロ服の男役の高橋淳の達者な演技。またソニェートカ役の森山京子も、カテリーナを向うに回しての嫌がらせの演技に巧いところを見せた。
新国立合唱団も、演出のせいで演技は中途半端だったものの、声楽面では非常に力強いものがあった。
余談ながら、近年はこの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」のみがもてはやされ、ショスタコーヴィチがのちに改訂した「カテリーナ・イズマイロワ」の方はほとんど忘れられた存在になっているが、後者の方にもすばらしい音楽が数多く聴かれるのだということを私は主張したい。
前者はセックス場面の描写において露骨で――つまり「優れて」おり、国家権力により弾圧された作品であるがゆえに偉大なのだ、という意見を述べる人が多いが、実際はそんなに単純に片づけられるものではない。
たとえば改定版では、最後の老いた囚人の歌が原典版よりも長くなっており、そこには「なんと俺たちの人生は暗いことか! 人間はこんなことのために生れて来たのだろうか!」という歌詞が追加され、それは流刑囚の合唱の上にひときわ高く歌われて、絶望的な悲劇感を強調しているのである。これこそ、国家権力にがんじがらめにされた作曲者が、心底から叫びたかったことなのではあるまいか?
このオペラを、ブルックナーの交響曲並みに原典版と改定版の「折衷版」で上演することはできないのかな、などと私は時折考えるのだが、まあ、やっぱり通用しない考えでしょうね。
☞グランド・オペラ 2009年秋号ステージ評
コメント
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5/10の公演を聴きました。演奏は中々よかったです。演出面では確かに合唱団の動きや歌手の演技に問題があるものの、これは演技する各個人の問題と言うよりは、やはり演出家の問題でしょう。あるいは演出家が意図的にそういう指示を出しているのではありませんか?スローな鈍い動きも部分的には不思議に音楽に合っていると感じる所もありました。また笑えて来るようなコメディータッチの部分もありましたね。改訂版もDVDで観ましたが、全体的には原典版の方が緊張感があって好きです。
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