2019・8・11(日)ダン・エッティンガー指揮東京フィル
フェスタサマーミューザKAWASAKI
ミューザ川崎シンフォニーホール 3時
東京フィル桂冠指揮者のダン・エッティンガーが、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲、モーツァルトの「フルート協奏曲第1番」(ソリストは高木綾子)、チャイコフスキーの「悲愴交響曲」を指揮。高木綾子のソロ・アンコールはドビュッシーの「シランクス」。コンサートマスターは三浦章宏。完売、ほぼ満席。
エッティンガーと東京フィルのコンサートを、ナマで聴くのは久しぶりである。彼もだいぶ貫録がついて来たようだ。オケから引き出す音楽にも、スケール感を増した。とりわけ「悲愴」には、エッティンガーの良さが現われていた。
彼の指揮するチャイコフスキーの交響曲は、10年近く前に「4番」と「5番」を聴いたことがあるが、それらと同様に、今回の「悲愴」もテンポの動きが大きく、デュナミークの構築も劇的だ。弦もたっぷり鳴らすが、それ以上に管楽器群の動きを目立たせる。
第1楽章提示部の舞曲調のくだり(モデラート・モッソ)の最後で、クラリネットのソロをまるでジャズのアドリブでもあるかのように極度に目立たせたのには驚いた━━そこでは奏者も実に派手な身振りを見せて、カーテンコールでもひときわ拍手を浴びていた(お客さんもよく見ているものである)。
また第3楽章での1回目のクレッシェンド(第53小節から)では、各管楽器による主題のモティーフの受け渡しを際立たせ、小気味よいシャープな演奏をつくっていた。
全曲を通じ、特にホルン群には随所で最強音を際立たせ、トロンボーンにも異様なほど豪快に咆哮させたが、このように金管群の内声部を前面に押し出した演奏は、これまで聴いたことのないほどのものである。晩年のチャイコフスキーの精妙な管弦楽法を浮き彫りにした演奏で、実に面白い。
ただその代り、弦楽器群の多彩な動きの魅力が犠牲にされたきらいもあっただろう。また、トロンボーンは、ややリアルに過ぎる傾向もなくはなかった。━━といってもこれらは、2CB席ほぼ中央で聴いた印象だから、他の席ではまた異なるバランスが生じていたかもしれない。
エッティンガーの細かい個所での巧さは枚挙に暇がない。
たとえば第1楽章第153小節以降のティンパニの最弱音のトレモロの最後を、全てポンとアクセントをつけて結んでいたところなど、凝り過ぎの感じもしたが、スコアを見なおしてみると、それらのトレモロの最後はいずれも8分音符となっているのであって、エッティンガーはまさにスコア通りに、しかもそれを明確に再現させていたのだということが判るのである(これはティンパニをはっきりと叩かせていたから聴きとれたと言える)。
その他、第1楽章終結部、ロ長調で弦のピッツィカートが下行して行く個所で、髙いロ音に少し強いアクセントを付し、漸弱で下がって行くといった丁寧なつくり、第2楽章中間部で漸強・漸弱の細かい指定を活用して音楽全体を揺れるように構築していたこと、あるいは第4楽章でファゴットが下行して行くその最後で弦に与えた表情豊かな響きなど、━━久しぶりに新鮮な「悲愴交響曲」に巡り合い、この曲の良さを再認識させてもらったように思う。
東京フィル桂冠指揮者のダン・エッティンガーが、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲、モーツァルトの「フルート協奏曲第1番」(ソリストは高木綾子)、チャイコフスキーの「悲愴交響曲」を指揮。高木綾子のソロ・アンコールはドビュッシーの「シランクス」。コンサートマスターは三浦章宏。完売、ほぼ満席。
エッティンガーと東京フィルのコンサートを、ナマで聴くのは久しぶりである。彼もだいぶ貫録がついて来たようだ。オケから引き出す音楽にも、スケール感を増した。とりわけ「悲愴」には、エッティンガーの良さが現われていた。
彼の指揮するチャイコフスキーの交響曲は、10年近く前に「4番」と「5番」を聴いたことがあるが、それらと同様に、今回の「悲愴」もテンポの動きが大きく、デュナミークの構築も劇的だ。弦もたっぷり鳴らすが、それ以上に管楽器群の動きを目立たせる。
第1楽章提示部の舞曲調のくだり(モデラート・モッソ)の最後で、クラリネットのソロをまるでジャズのアドリブでもあるかのように極度に目立たせたのには驚いた━━そこでは奏者も実に派手な身振りを見せて、カーテンコールでもひときわ拍手を浴びていた(お客さんもよく見ているものである)。
また第3楽章での1回目のクレッシェンド(第53小節から)では、各管楽器による主題のモティーフの受け渡しを際立たせ、小気味よいシャープな演奏をつくっていた。
全曲を通じ、特にホルン群には随所で最強音を際立たせ、トロンボーンにも異様なほど豪快に咆哮させたが、このように金管群の内声部を前面に押し出した演奏は、これまで聴いたことのないほどのものである。晩年のチャイコフスキーの精妙な管弦楽法を浮き彫りにした演奏で、実に面白い。
ただその代り、弦楽器群の多彩な動きの魅力が犠牲にされたきらいもあっただろう。また、トロンボーンは、ややリアルに過ぎる傾向もなくはなかった。━━といってもこれらは、2CB席ほぼ中央で聴いた印象だから、他の席ではまた異なるバランスが生じていたかもしれない。
エッティンガーの細かい個所での巧さは枚挙に暇がない。
たとえば第1楽章第153小節以降のティンパニの最弱音のトレモロの最後を、全てポンとアクセントをつけて結んでいたところなど、凝り過ぎの感じもしたが、スコアを見なおしてみると、それらのトレモロの最後はいずれも8分音符となっているのであって、エッティンガーはまさにスコア通りに、しかもそれを明確に再現させていたのだということが判るのである(これはティンパニをはっきりと叩かせていたから聴きとれたと言える)。
その他、第1楽章終結部、ロ長調で弦のピッツィカートが下行して行く個所で、髙いロ音に少し強いアクセントを付し、漸弱で下がって行くといった丁寧なつくり、第2楽章中間部で漸強・漸弱の細かい指定を活用して音楽全体を揺れるように構築していたこと、あるいは第4楽章でファゴットが下行して行くその最後で弦に与えた表情豊かな響きなど、━━久しぶりに新鮮な「悲愴交響曲」に巡り合い、この曲の良さを再認識させてもらったように思う。