2019・2・10(日)テオドール・クルレンツィス指揮ムジカ・エテルナ
Bunkamuraオーチャードホール 3時
モーツァルトの「ダ・ポンテ3部作」オペラのCDにおける、読みの深い鮮烈な解釈の演奏。あるいは、激烈極まるチャイコフスキーの「悲愴交響曲」とマーラーの「第6交響曲《悲劇的》」による、2年連続のレコード・アカデミー賞大賞受賞。━━等々、この数年来、レコードを通じて日本の音楽界を席巻しているのが、このクルレンツィスとムジカ・エテルナだ。
最近の来日アーティストの中でも、これほど満腔の期待と、それが裏切られはしないかという一抹の不安とを抱きつつ、ナマで聴けるのを待ち望んだ指揮者とオーケストラは、他にない。私とて4、5年前だったら、とっくにヨーロッパを回って聴き歩いて、皆に先んじてあれやこれや言えただろうが、彼らの演奏をナマで聴くのは、今日が初めてだ。
今日はチャイコフスキー・プログラムで、前半は「ヴァイオリン協奏曲」だった。
予想通り変幻自在、自由奔放、テンポの面でもデュナミークの面でも、一音たりとも既成の概念に囚われぬ独自のスタイルを以って演奏する。序奏での豊かで瑞々しい表情を聴いた瞬間、これはまさしくホンモノだ、という確信を得られたのが嬉しい。
しかもソリストのパトリツィア・コパチンスカヤが、先日の大野&都響とのシェーンベルクの協奏曲の時とは打って変わって、これまた凝りに凝った音楽のつくりで、飛び跳ねるように、才気あふれる演奏を繰り広げる。いじり過ぎるという感もないではないが、聴き慣れたチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」がこれほど前衛音楽的な様相を以って立ち現れた演奏は、これまで聴いたことがない。
なおコパチンスカヤは、ソロ・アンコールでも、ミヨーやリゲティの小品を、クラリネット奏者やコンサートマスターと一緒にデュオで弾いたりしたが、これらも才気煥発といった愉しい演奏であった。
第2部は、チャイコフスキーの「悲愴交響曲」だった。
今回、ナマで聴いた彼らの「悲愴」は、2015年2月に録音されたCD(ソニークラシカルSICC-30426)に聴かれる演奏と比較すると、精妙さには不足し、特に第1楽章再現部などは凄味と濃密さの面でややあっさりしたものになっていて、全体的にはやや粗い演奏という印象ではあったけれども、しかしそれでもそのスリリングな熱量感というか、沸き立つ凶暴さといった要素は、並外れたものがあった。
とりわけ、チャイコフスキーがスコアに念入りに書き込んだ微細な表情の変化を━━特にそのフォルテ3つとか、ピアノ6つとかいう、極端なデュナミークの対比を、これほど実感を以って再生してくれた演奏は稀ではなかろうか。全曲にわたり展開される異様なほど激しい起伏も、チャイコフスキーのその感情の振幅の激しさをいっそう具体的に表現するための手法であると思われる。
なおこの曲では、チェロを除く弦楽器群はもちろん、管楽器群をも含めて「座っていなければ演奏できぬ」楽器以外の奏者は全員立ったままで演奏するというステージを見せていたが、演奏の猛烈さはおそらくそこからも生まれるのだろう。
とにかく、カーテンコールでのクルレンツィスの動きといい、それに呼応する楽員たちのステージ所作といい、一般のクラシックのオーケストラのステージとはかなり違った雰囲気がある。実に面白い指揮者とオーケストラが出現したものである。極度にアクの強い演奏であるため、聴くのは些か疲労するが、それでもやはりいろいろ聴きたくなるコンビだ。
昨年「春の祭典」を聴いて驚嘆させられたフランソワ=グザヴィエ・ロトとル・シエクルもそうだったが、世界のオーケストラ界にはまだまだ面白い潮流が山とあるようだ。
モーツァルトの「ダ・ポンテ3部作」オペラのCDにおける、読みの深い鮮烈な解釈の演奏。あるいは、激烈極まるチャイコフスキーの「悲愴交響曲」とマーラーの「第6交響曲《悲劇的》」による、2年連続のレコード・アカデミー賞大賞受賞。━━等々、この数年来、レコードを通じて日本の音楽界を席巻しているのが、このクルレンツィスとムジカ・エテルナだ。
最近の来日アーティストの中でも、これほど満腔の期待と、それが裏切られはしないかという一抹の不安とを抱きつつ、ナマで聴けるのを待ち望んだ指揮者とオーケストラは、他にない。私とて4、5年前だったら、とっくにヨーロッパを回って聴き歩いて、皆に先んじてあれやこれや言えただろうが、彼らの演奏をナマで聴くのは、今日が初めてだ。
今日はチャイコフスキー・プログラムで、前半は「ヴァイオリン協奏曲」だった。
予想通り変幻自在、自由奔放、テンポの面でもデュナミークの面でも、一音たりとも既成の概念に囚われぬ独自のスタイルを以って演奏する。序奏での豊かで瑞々しい表情を聴いた瞬間、これはまさしくホンモノだ、という確信を得られたのが嬉しい。
しかもソリストのパトリツィア・コパチンスカヤが、先日の大野&都響とのシェーンベルクの協奏曲の時とは打って変わって、これまた凝りに凝った音楽のつくりで、飛び跳ねるように、才気あふれる演奏を繰り広げる。いじり過ぎるという感もないではないが、聴き慣れたチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」がこれほど前衛音楽的な様相を以って立ち現れた演奏は、これまで聴いたことがない。
なおコパチンスカヤは、ソロ・アンコールでも、ミヨーやリゲティの小品を、クラリネット奏者やコンサートマスターと一緒にデュオで弾いたりしたが、これらも才気煥発といった愉しい演奏であった。
第2部は、チャイコフスキーの「悲愴交響曲」だった。
今回、ナマで聴いた彼らの「悲愴」は、2015年2月に録音されたCD(ソニークラシカルSICC-30426)に聴かれる演奏と比較すると、精妙さには不足し、特に第1楽章再現部などは凄味と濃密さの面でややあっさりしたものになっていて、全体的にはやや粗い演奏という印象ではあったけれども、しかしそれでもそのスリリングな熱量感というか、沸き立つ凶暴さといった要素は、並外れたものがあった。
とりわけ、チャイコフスキーがスコアに念入りに書き込んだ微細な表情の変化を━━特にそのフォルテ3つとか、ピアノ6つとかいう、極端なデュナミークの対比を、これほど実感を以って再生してくれた演奏は稀ではなかろうか。全曲にわたり展開される異様なほど激しい起伏も、チャイコフスキーのその感情の振幅の激しさをいっそう具体的に表現するための手法であると思われる。
なおこの曲では、チェロを除く弦楽器群はもちろん、管楽器群をも含めて「座っていなければ演奏できぬ」楽器以外の奏者は全員立ったままで演奏するというステージを見せていたが、演奏の猛烈さはおそらくそこからも生まれるのだろう。
とにかく、カーテンコールでのクルレンツィスの動きといい、それに呼応する楽員たちのステージ所作といい、一般のクラシックのオーケストラのステージとはかなり違った雰囲気がある。実に面白い指揮者とオーケストラが出現したものである。極度にアクの強い演奏であるため、聴くのは些か疲労するが、それでもやはりいろいろ聴きたくなるコンビだ。
昨年「春の祭典」を聴いて驚嘆させられたフランソワ=グザヴィエ・ロトとル・シエクルもそうだったが、世界のオーケストラ界にはまだまだ面白い潮流が山とあるようだ。
コメント
大阪で拝聴しました
大阪での同プログラム、前評判どおりの凄さでした。ヴァイオリン協奏曲では、コパチンスカヤさんの、跳び跳ねるような演奏も素晴らしかったです。後半の[悲愴]もお見事でした。何だかカルチャーショックのようなサウンド。面白かったです。クルレンツィスさんのエネルギッシュな指揮も素晴らしく、拝聴出来て良かったと思いました。
凄い演奏でした。しかし・・・
13日のサントリーホールでの公演を拝聴しました(組曲3番、ロミオとジュリエット、フランチェスカ・ダ・リミニ)。個々の奏者が凄い技量の持ち主であること、そのような集団をクルレンツィスが見事に統率していること、そのようなカリスマ的指揮者に率いられているのに個々の奏者の豊かな自発性が感じられ、終演後、和気藹々とした家族的な雰囲気に包まれることなど、大変ユニークな団体だと思いました。
演奏は、扇情的というか、ディナーミクの巾の広さ、テンポ設定の極端さなど、かなり尖った(戦いを挑んでくるような)スタイルだったと思いますが、高度なテクニックに支えらえた一糸乱れぬアンサンブルと完璧に統一されたアーティキュレーションに圧倒されました。ただ(この演奏が極めて高いレベルで完成された芸術表現であることは認めるものの)、果たしてこれが小生の理想とするチャイコフスキーの演奏なのかと考えた場合、個人的には少し引っかかるところがあります。
たとえば、ユジャ・ワンの実演に接するとき、その類い稀なるパフォーマンスにとても魅力を感じながらも、そのとき小生の心の中に湧き上がってくる感情は、素晴らしい芸術表現に接したときの喜びというよりも、超一流アスリートの躍動する肉体を見たときに感じる衝撃に近いのではないか、要するに「驚愕はするが、感動はしない」あるいは「歓声は出るが、涙は出ない」のではないかと思うことが少しあります。今回もなんとなくそれに近いものを感じたのですが、諸賢各位のご感想はいかがだったでしょうか。
まあ、そうは言っても、凄いものを観させて(聴かせて)いただいた、チケット代の元は十分取れた、と思っているのも事実なんですが。それにしても、前半終了時のアンコール(コンマスの独奏によるチャイコフスキーVn協奏曲第3楽章とソリスト・アンコールのイザイ!)も凄かったですね。前半終了時にこんなアンコールを演奏すること自体、この指揮者とオケがちょっと尋常ではない(いっちゃってる!)ことの現れなのかもしれません(失礼・・・笑)。
演奏は、扇情的というか、ディナーミクの巾の広さ、テンポ設定の極端さなど、かなり尖った(戦いを挑んでくるような)スタイルだったと思いますが、高度なテクニックに支えらえた一糸乱れぬアンサンブルと完璧に統一されたアーティキュレーションに圧倒されました。ただ(この演奏が極めて高いレベルで完成された芸術表現であることは認めるものの)、果たしてこれが小生の理想とするチャイコフスキーの演奏なのかと考えた場合、個人的には少し引っかかるところがあります。
たとえば、ユジャ・ワンの実演に接するとき、その類い稀なるパフォーマンスにとても魅力を感じながらも、そのとき小生の心の中に湧き上がってくる感情は、素晴らしい芸術表現に接したときの喜びというよりも、超一流アスリートの躍動する肉体を見たときに感じる衝撃に近いのではないか、要するに「驚愕はするが、感動はしない」あるいは「歓声は出るが、涙は出ない」のではないかと思うことが少しあります。今回もなんとなくそれに近いものを感じたのですが、諸賢各位のご感想はいかがだったでしょうか。
まあ、そうは言っても、凄いものを観させて(聴かせて)いただいた、チケット代の元は十分取れた、と思っているのも事実なんですが。それにしても、前半終了時のアンコール(コンマスの独奏によるチャイコフスキーVn協奏曲第3楽章とソリスト・アンコールのイザイ!)も凄かったですね。前半終了時にこんなアンコールを演奏すること自体、この指揮者とオケがちょっと尋常ではない(いっちゃってる!)ことの現れなのかもしれません(失礼・・・笑)。
KEN さんのコメントを拝読して
何度も申し訳ありません。終演後の通路で、どなたかが、[上手いけど、感動までは。]っておっしゃっていました。KENさんのコメントを拝読してなるほどと思いました。私は、ただただ面白かったです。千秋楽の大阪公演は、むしろ、オケの女性が、感極まっていらっしゃいました。
議論百出ですが、私は技術は高いとはいえ最高ではないけれど本当に感動しました。超エリートオケはミスしない完璧な技術ですが、全然感動しない演奏をすることも結構ありますから。