2018・10・27(土)上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団
サントリーホール 2時
ブルックナーの「交響曲第9番」と、「テ・デウム」。ブルックナーが、「私がこの交響曲の第4楽章を完成できないままだったら、代わりに《テ・デウム》を演奏してくれ」と「遺言」したという伝記に基づく形である。
しかし、ブルックナーがこの件をどんな状況の中で、どういう話の流れの中で、どういう意図で行なったのか、それを明確に伝えている資料には、私はまだお目にかかったことはない。むしろたとえば、「どうしても第4楽章がなければ示しがつかぬというのなら、代わりにこの《テ・デウム》でもやればいいだろう」程度のニュアンスではなかったのか、という気もするのだが━━。
その是非はともかくとして、今回は、この2曲が休憩なしに続けて演奏された。
第2楽章のあとで合唱団(新国立劇場合唱団)がP席に入場した。ただし声楽ソリスト(山口清子、清水華澄、与儀巧、原田圭)は第3楽章が終ったところでオーケストラ後方に入場するという方法が採られたので、第3楽章が神秘的に終るとすぐにアタッカ同然で「テ・デウム」が爆発するといったような「衝撃的効果」は生まれなかった。ただ、この形の有機的な意味合いを知る聴衆は、第3楽章のあとでは、賢明にも拍手を控えていた。
合唱は、人数はそう多くなかったものの、力強いハーモニーを聴かせていた。女声は多少絶叫調になるところもないではなかったが、この曲の性格上、仕方がないかもしれない。声楽ソリスト陣もほぼ無難というところだが、何かその歌唱全体に安定したものが感じられず、落ち着きがなかったのはどうしてだろう。
いや、今日は、主役のはずの新日本フィルが、異様に不安定で、荒っぽかったのだ。ヴァイオリンはいつになく硬くて鋭く(ブルックナーの音楽なのに!)、ワーグナー・テューバもアンサンブルから浮き上がって粗く、そのアンサンブル全体にも、あちこち綻びが聴かれた。
上岡と新日本フィルの演奏はこれまでたくさん聴いて来たが、今日ほど散漫な演奏にはかつて出逢ったことがない。先日のR・シュトラウスの作品集では、このコンビの呼吸も合って来たなという喜びを味わったのに、今日はそれが無惨にも打ち砕かれた思いだ。
第1楽章の第63小節からのフォルテ3つによる豪壮な爆発の個所にしても、金管群を陰翳ある音色で響かせようとするいつもの上岡の意図は窺われたのだが、それが完全に達成されていなかったため、むしろブルックナー特有の清澄なコラール的性格を失わせる結果にしかならなかったのである。濁った響きほど、ブルックナーの作品の本質を誤らせるものがあるだろうか?
上岡のブルックナーは、私にはどうも「いじり過ぎ」のような気がしてならない。彼がしばしば楽譜の指定以上に長く取るゲネラル・パウゼは、緊迫感を持って生きるどころか、ブルックナーの交響曲特有の壮大な滔々たる流れをその都度停止させてしまう結果を招いていたのだ。敢えて言えば、今回ほど流れの悪いブルックナーの交響曲の演奏は、かつて聞いたことがない。彼の交響曲は、やはり自然な構築によってのみ、真価を発揮するのではないか?(※)
R・シュトラウスの作品のように、最良の意味での手練手管を発揮した音楽の場合には、どんな演出も効果を発揮するだろうが、ブルックナーの音楽が持つ高貴な性格は、なによりも率直さによって生まれて来るものなのではないか━━ということを改めて考えてしまうような、今日の演奏であった。
※フルトヴェングラーが指揮した「9番」のように、テンポが激しく動きながらも、魔性的な性格が非凡な形で打ち出された演奏は、例外である。
ブルックナーの「交響曲第9番」と、「テ・デウム」。ブルックナーが、「私がこの交響曲の第4楽章を完成できないままだったら、代わりに《テ・デウム》を演奏してくれ」と「遺言」したという伝記に基づく形である。
しかし、ブルックナーがこの件をどんな状況の中で、どういう話の流れの中で、どういう意図で行なったのか、それを明確に伝えている資料には、私はまだお目にかかったことはない。むしろたとえば、「どうしても第4楽章がなければ示しがつかぬというのなら、代わりにこの《テ・デウム》でもやればいいだろう」程度のニュアンスではなかったのか、という気もするのだが━━。
その是非はともかくとして、今回は、この2曲が休憩なしに続けて演奏された。
第2楽章のあとで合唱団(新国立劇場合唱団)がP席に入場した。ただし声楽ソリスト(山口清子、清水華澄、与儀巧、原田圭)は第3楽章が終ったところでオーケストラ後方に入場するという方法が採られたので、第3楽章が神秘的に終るとすぐにアタッカ同然で「テ・デウム」が爆発するといったような「衝撃的効果」は生まれなかった。ただ、この形の有機的な意味合いを知る聴衆は、第3楽章のあとでは、賢明にも拍手を控えていた。
合唱は、人数はそう多くなかったものの、力強いハーモニーを聴かせていた。女声は多少絶叫調になるところもないではなかったが、この曲の性格上、仕方がないかもしれない。声楽ソリスト陣もほぼ無難というところだが、何かその歌唱全体に安定したものが感じられず、落ち着きがなかったのはどうしてだろう。
いや、今日は、主役のはずの新日本フィルが、異様に不安定で、荒っぽかったのだ。ヴァイオリンはいつになく硬くて鋭く(ブルックナーの音楽なのに!)、ワーグナー・テューバもアンサンブルから浮き上がって粗く、そのアンサンブル全体にも、あちこち綻びが聴かれた。
上岡と新日本フィルの演奏はこれまでたくさん聴いて来たが、今日ほど散漫な演奏にはかつて出逢ったことがない。先日のR・シュトラウスの作品集では、このコンビの呼吸も合って来たなという喜びを味わったのに、今日はそれが無惨にも打ち砕かれた思いだ。
第1楽章の第63小節からのフォルテ3つによる豪壮な爆発の個所にしても、金管群を陰翳ある音色で響かせようとするいつもの上岡の意図は窺われたのだが、それが完全に達成されていなかったため、むしろブルックナー特有の清澄なコラール的性格を失わせる結果にしかならなかったのである。濁った響きほど、ブルックナーの作品の本質を誤らせるものがあるだろうか?
上岡のブルックナーは、私にはどうも「いじり過ぎ」のような気がしてならない。彼がしばしば楽譜の指定以上に長く取るゲネラル・パウゼは、緊迫感を持って生きるどころか、ブルックナーの交響曲特有の壮大な滔々たる流れをその都度停止させてしまう結果を招いていたのだ。敢えて言えば、今回ほど流れの悪いブルックナーの交響曲の演奏は、かつて聞いたことがない。彼の交響曲は、やはり自然な構築によってのみ、真価を発揮するのではないか?(※)
R・シュトラウスの作品のように、最良の意味での手練手管を発揮した音楽の場合には、どんな演出も効果を発揮するだろうが、ブルックナーの音楽が持つ高貴な性格は、なによりも率直さによって生まれて来るものなのではないか━━ということを改めて考えてしまうような、今日の演奏であった。
※フルトヴェングラーが指揮した「9番」のように、テンポが激しく動きながらも、魔性的な性格が非凡な形で打ち出された演奏は、例外である。
コメント
上岡敏之
上岡敏之考
今日は。いちばん好きなブルックナーと私としては苦手な上岡さんの指揮ということで興味深く拝読しました。
昨年?TV放送されたこのコンビのブルックナー3番を聴いたのが上岡さんのブルックナー唯一の体験ですが、どうもいただけませんでした。東条様が今回仰ってるのと同じことをファンなりに感じました。よって録画した物をすぐに消去してしまいました。
素人の勝手さで、そういう演奏を一度聴くと、以後他の作曲家の曲でも「上岡さんは苦手だ」と刷り込まれてしまいました。同第7のドイツの元手兵(オケの名を失念)とのCDが前代未聞の遅さ、長さと聞いてますが、興味はあっても買うには踏み切れません(笑)
昨年?TV放送されたこのコンビのブルックナー3番を聴いたのが上岡さんのブルックナー唯一の体験ですが、どうもいただけませんでした。東条様が今回仰ってるのと同じことをファンなりに感じました。よって録画した物をすぐに消去してしまいました。
素人の勝手さで、そういう演奏を一度聴くと、以後他の作曲家の曲でも「上岡さんは苦手だ」と刷り込まれてしまいました。同第7のドイツの元手兵(オケの名を失念)とのCDが前代未聞の遅さ、長さと聞いてますが、興味はあっても買うには踏み切れません(笑)
上岡さん
上岡さんというと、時間を惜しむようにスコアを熱心に読んでいるようですが、そこからどのようにして、ある意味独特な演奏が生まれるのか、不思議です。
上岡さんの実演には一度触れたことがありますが、すっかりつかれてしまい・・・演奏される曲までもきらいになりそうな気がして、リベンジする気が起きません。ただ、東条先生の上岡評はいつも読みごたえがあり、興味深く拝読しています。上岡さんは曲にストレートに迫る意図で臨んでいるかもしれませんが、私としては曲の真髄に裏側から迫るような感じで、それはそれで勉強になります。
上岡さんの実演には一度触れたことがありますが、すっかりつかれてしまい・・・演奏される曲までもきらいになりそうな気がして、リベンジする気が起きません。ただ、東条先生の上岡評はいつも読みごたえがあり、興味深く拝読しています。上岡さんは曲にストレートに迫る意図で臨んでいるかもしれませんが、私としては曲の真髄に裏側から迫るような感じで、それはそれで勉強になります。
翌日の横浜ですが、似たようなものでした。
彼のR.シュトラウスは、以前「アルプス交響曲」で、情景を巧みに描いた見通しの良い演奏に感服した覚えがありますが、ブルックナーで同じようなことをすると、どうしても神経質に聴こえてしまう。考え過ぎの音楽を引きずって行くようで、感服には程遠い。スケルツォで欠伸が出たのは生まれて初めて。