2024-12

2018・10・18(木)マウリツィオ・ポリーニ・リサイタル

     サントリーホール  7時

 プログラムは二転三転し、結局今日は、第1部がショパンの「ノクターン」の「作品27」2曲、「マズルカ」の「作品56」3曲、「ノクターン」の「作品55」2曲、「子守歌」。第2部がドビュッシーの「前奏曲集第1巻」。アンコールがドビュッシーの「花火」。

 28日の北京公演はどうだったか知らないけれども、7日の東京初日はシューマンとショパンのプログラムを予定通り全部弾き切り、アンコールも2曲弾いた由。そのあとで「腕が痛い」という状態になり、11日の東京公演が21日に延期になったのは周知の通りだ。
 そして今日のプログラムも、当初はシェーンベルクとベートーヴェン(「悲愴」と「ハンマークラヴィーア」)だったのが、前記のように変更されたというわけである。

 「ハンマークラヴィーア」を聴くためにチケットを買ったのだから代金と交通費を返してもらいたい、と主催者にクレームをつけていた人を受付で見かけたが、まあ、気持は解らないでもない。
 どう話がついたのか、その人をあとで2階ロビーで見かけた。よく見たら、ふだんあまり話をしたことはないけれども知っている某氏だった。未だ口惜しがっているようなので、「70歳代も半ばになれば予定通り行かないもんですよ、かのバックハウスも、ベートーヴェンのソナタ全集をステレオで再録音した時、《ハンマークラヴィーア》だけはついに弾く体力が残っておらず、旧モノーラル録音を再利用したことがあったじゃないですか、ドビュッシーを聴けるだけ有難いと思わなくちゃ」と妙な慰めをして納得してもらったのだが・・・・。

 そのポリーニ、ステージ上の歩き方を見ると、随分年とったな、と思わせるが、演奏はやはり非凡である。
 ショパンの作品集では何となく打ち沈んだモノローグのような演奏で、若い頃のポリーニだったらこういう演奏はしなかったろうに、と思わせたが、ドビュッシーになるとそれが一転する。穏やかな語り口ながら、その表情の多彩さは、円熟期に入ってからのポリーニがついに到達した幽遠自在の世界を感じさせたのではないか。

 たとえば、「デルフィの舞姫たち」の第4小節目、pから膨らんだ音がppの高所から降りて来る音に変わる個所で、一瞬にして神秘的で透明な音色へ変化する鮮やかさ。
 そして、「花火」の3連音符のppでうごめく音群と、第3小節目以降の各1拍目でぱっと閃く高い16分音符(時には8分音符)の、遠い幻影のような澄んだ音色。
 ━━こういうドビュッシーが聴けただけで、私はこの上なく満足である。

 アンコールは1曲だけだったが、終了を知らせるために客席の灯が点いても拍手はいっこう鳴りやまず、スタンディングの聴衆は何度もポリーニを舞台に呼び出した。こういう光景は、めったに見られるものではない。

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