2017・3・31(金)飯守泰次郎指揮関西フィルハーモニー管弦楽団
ザ・シンフォニーホール 7時
第281回定期公演で、「飯守のブルックナー第7回」とも銘打たれている。
その第7回━━「第7交響曲」での飯守の指揮、関西フィルの演奏は、全体としては、かなり激しい感情の動きに満ちたものであった。
とはいえ第1楽章は丁寧で念入りな設計だったが、やや慎重な演奏に留まっていたようにも感じられた。断続しながら変化して行く主題や動機群が、連続した形で大きく弧を描くような起伏に発展するまでに至らなかったのが少々もどかしく、飯守の遅いテンポをオーケストラが持ち堪え切れぬといった雰囲気が無くもなかったのである。しかしコーダでは、巨大な頂点を築いていた。
第2楽章からは次第に雰囲気も変わって行き、落ち着いた陰翳が拡がって行く。関西フィルも昂揚し、ノーヴァク版の打楽器を含めた頂点が築かれるあたりや、あるいは最後のワーグナー・テューバによる挽歌などでは、立派な演奏を聴かせてくれた。
この頂点の個所で、ティンパニを楽譜指定個所よりも前から、しかもクレッシェンドを加えつつ叩かせはじめたのは飯守の解釈か?(東京シティ・フィルとの演奏ではどうだったかしらん?)。
全てが大きく変化したのは第3楽章以降。スケルツォでの強靭な力は目覚ましく、それは魔性的な舞曲ではなく、前半2楽章での暗鬱さから転じて「生」のエネルギーを解放する踊りである━━というのが、飯守の解釈なのかもしれない。
そして第4楽章では、ノーヴァク版にあるテンポの細かい変化を生かし、音楽を絶えず揺り動かし、強い緊張感を生み出していた。この加速と減速をノーヴァク版の指定に従ってこれだけ緻密に実行した演奏も珍しいだろう。世の中には、「ノーヴァク版使用」と称しながら、第4楽章をまるで(テンポの変化の指定を取り去っている)ハース版のように落ち着いたテンポで演奏する指揮者も、結構多いからである。
飯守のこのような指揮で聴くと、この「7番」は、「暗」から「明」への移行をはっきりと打ち出している交響曲に感じられる。実に興味深い。
前半に演奏されたのは、若林顕をソリストに迎えた、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第25番」である。
若林の、明晰清澄にして率直な演奏が素晴らしい。手練手管を弄した(とまで言っては表現が悪いけれども)手法の多い最近のモーツァルト演奏の中にあって、これはまさに清涼剤のような爽やかさを感じさせるソロであった。こういうモーツァルトをナマで久しぶりに聴けたような気がするが、何と快かったことか。
飯守と関西フィルも、ブルックナーとは対照的な、軽やかな音を響かせてサポートしていた。コンサートマスターは岩谷祐之。
第281回定期公演で、「飯守のブルックナー第7回」とも銘打たれている。
その第7回━━「第7交響曲」での飯守の指揮、関西フィルの演奏は、全体としては、かなり激しい感情の動きに満ちたものであった。
とはいえ第1楽章は丁寧で念入りな設計だったが、やや慎重な演奏に留まっていたようにも感じられた。断続しながら変化して行く主題や動機群が、連続した形で大きく弧を描くような起伏に発展するまでに至らなかったのが少々もどかしく、飯守の遅いテンポをオーケストラが持ち堪え切れぬといった雰囲気が無くもなかったのである。しかしコーダでは、巨大な頂点を築いていた。
第2楽章からは次第に雰囲気も変わって行き、落ち着いた陰翳が拡がって行く。関西フィルも昂揚し、ノーヴァク版の打楽器を含めた頂点が築かれるあたりや、あるいは最後のワーグナー・テューバによる挽歌などでは、立派な演奏を聴かせてくれた。
この頂点の個所で、ティンパニを楽譜指定個所よりも前から、しかもクレッシェンドを加えつつ叩かせはじめたのは飯守の解釈か?(東京シティ・フィルとの演奏ではどうだったかしらん?)。
全てが大きく変化したのは第3楽章以降。スケルツォでの強靭な力は目覚ましく、それは魔性的な舞曲ではなく、前半2楽章での暗鬱さから転じて「生」のエネルギーを解放する踊りである━━というのが、飯守の解釈なのかもしれない。
そして第4楽章では、ノーヴァク版にあるテンポの細かい変化を生かし、音楽を絶えず揺り動かし、強い緊張感を生み出していた。この加速と減速をノーヴァク版の指定に従ってこれだけ緻密に実行した演奏も珍しいだろう。世の中には、「ノーヴァク版使用」と称しながら、第4楽章をまるで(テンポの変化の指定を取り去っている)ハース版のように落ち着いたテンポで演奏する指揮者も、結構多いからである。
飯守のこのような指揮で聴くと、この「7番」は、「暗」から「明」への移行をはっきりと打ち出している交響曲に感じられる。実に興味深い。
前半に演奏されたのは、若林顕をソリストに迎えた、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第25番」である。
若林の、明晰清澄にして率直な演奏が素晴らしい。手練手管を弄した(とまで言っては表現が悪いけれども)手法の多い最近のモーツァルト演奏の中にあって、これはまさに清涼剤のような爽やかさを感じさせるソロであった。こういうモーツァルトをナマで久しぶりに聴けたような気がするが、何と快かったことか。
飯守と関西フィルも、ブルックナーとは対照的な、軽やかな音を響かせてサポートしていた。コンサートマスターは岩谷祐之。
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飯森/関西フィルのブル7
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この曲、3、4楽章が軽るめでアンバランスと思っていたがこの日の演奏では全体の中によく溶け合い構成的に無理を感じさせなかった。2楽章冒頭のチューバの音が私の席では強すぎると感じた位が気になったところか。それにしても2楽章の冒頭の後にくる清澄な旋律は何度聞いてもいい。このコンビ、4月29日定期の荘厳ミサが今から楽しみである。