2024-12

2017・3・13(月)インバル指揮ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団

      すみだトリフォニーホール  7時

 ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団(旧東独時代のベルリン交響楽団)の現在の首席指揮者はイヴァン・フィッシャーだが、今回は、かつての首席指揮者エリアフ・インバルとの来日だ。プログラムは、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデからの「前奏曲と愛の死」、マーラーの「交響曲第5番」。

 日下紗矢子さんのこのオケのコンサートマスターとしての雄姿(?)を見られたのは嬉しいが、残念ながらそれはワーグナーにおいてのみだった。マーラーでは別の男性がコンマスを務め、日下さんはトップサイドで弾いていた。

 で、大いに期待されたこのオケの公演であったが、━━インバルの指揮にしては、意外に音が粗い。「トリスタン」での音の硬さなど、呆気にとられるほどで、「愛の死」の頂点にいたっては、ただ大きな音が雑然と響くだけで、愛の陶酔も何も感じられない。
 聴いた席は22列中央近く。このあたりは、金管が強く響いて来て音が硬く聞こえるというのは、以前にも経験したことだ。上層階━━3階席とか、左右のバルコン席の上部あたりなら、こんなに刺激的な音には聞こえないはず。

 ただいずれにしても、このオーケストラは、アンサンブルを含めての技術的な部分には鷹揚なところがある。ただしそれを、あの巨大な空間を持つベルリンのコンツェルトハウス(旧シャウシュピールハウス)で聴くと、陰翳と大らかさを伴った不思議な味をもって拡がって来るのだが・・・・。
 来週、東京芸術劇場で「巨人」を聴いてみれば、もう少し詳しく判るだろう。

 そんなわけで、「トリスタン」はすこぶる落ち着かない印象に終始したが、19列で聴いた(この移動は、許可を得ての業務上のものです。念の為)マーラーの「5番」では、弦楽器群がもう少し強く浮かび上がって、オーケストラの音にも奥行感が生じ、内声部もかなり明確に聴き取れて、演奏も多彩なものに感じられるようになった。
 第3楽章でのホルンの活躍も劇的に味わえたし、第4楽章の「アダージェット」でも柔らかい空間的な拡がりが堪能できる。

 特に第2楽章からあとは、インバル特有の剛直な音楽づくりが冴え、実に見事な演奏になった。フィナーレのコーダ近く、これでそのまま頂点へ━━と思わせておきながら、突然勢いが落ちて行く例の個所(第581小節から)では、凡庸な指揮者の手にかかると「未だ終らないのかよ」などという印象を生んでしまうものだが、さすがインバルはそのあたりの設計が巧い。少しも緊張感を失わせず、再び最後の昂揚へ全軍を率いて突き進んで行った。
 このように、ひたすらクライマックスへ追い上げて行くインバルの指揮には、相変わらず凄味が漲っている。コンツェルトハウス管弦楽団も、鮮やかにそれに応えていた。

※コメントにつき☞前日の項

※この件に関するコメントが次第に荒れて来たので、本意ではありませんが、19日正午以降のご投稿分6通を削除させていただき、「以上」といたします。議論には節度を。

コメント

お疲れさまです。失礼ながら、また否定的な意見です。傷つきやすい方は、この先は読まないで下さい。 私も“今度こそは”と期待していたのですけど、一体どうしちゃったのでしょうか?インバルさん。確かに後半のマラ「5」では持ち直した感はありましたが、それでも私としては“こんなものではないはずなのに”と釈然としないまま終わった感じです。フィルハーモニア管との時もそうでしたが(この時は大ブーまで出た!)、オケが適当に弾いているのがわかるし(私の席は2列目でした)、もうリハーサルの段階からあまり細かく作ってないんじゃないかという気がしてならない。兎に角仕上げが粗いですよね。 これは私の勝手な推測ですが、本人はもう、いい加減同じ曲ばかり頼まれることにウンザリしているのではないでしょうか? いくらマーラーを人生のライフワークとしているからといっても決まって「巨人」と「5番」(フィルハーモニア管の時は、+「復活」と「9番」) ですからね・・・。折角の海外オケとの公演です。そろそろ「6番」と「9番」とかでもよかったんじゃないかと思うんですけど・・・。それよりもストラヴィンスキー、ラヴェル、チャイコフスキーの演奏もとてもイイという事を我々は都響やN響との実演でとっくに知っているではないか。何故頼まないのでしょうか? この先もインバルと海外オケとの公演でこれらが披露される可能性は皆無に近いだろう。結局のところ主催者側は一般客を如何に取り込むかを考えているので、黙ってても来るコア・ファンやコンサート・ゴアーのことは、端から相手にしていないのだ。一番貢献しているのは、この種の人達だろうに。悲しい現実である。

その日の演奏は聴いていないので演奏はノーコメントですが、選曲について、インバルほどの指揮者であれば、少なくとも自分の意見は言っていて、ある程度は通るのではないでしょうか。論者は個人的な印象にすぎないと言うのでしょうが、飽きた曲目を演奏していると指摘するのであれば、もう少し確たる根拠(例えば、主催者、オケ、本人の発言など)もほしくなります。

ありがとうございます

前置きしたように“勝手”な印象です。根拠はありません。最近、あまりにも同じ曲ばかり振りすぎていて、結果が思わしくないので。

視野狭窄的鑑賞態度

「どやろね」さんに全く同感します。
独善的でしかも慎みないのは本当に見苦しく思います。
もう少し視野を広く、多様性の存在を意識すべき。視野狭窄的思考は、すなわち音楽鑑賞の態度でもあります。

椿翼様。“どやろね”様への私の返事を読んだ上でのコメントですね? なら、それはそのまま貴方に当て嵌まるのでは?  私はただ、自分の感じた印象を率直に述べているだけ。その位の“自由”も許されないなら、そもそもコメント覧は必要ないでしょう?  それと誤解があるようなので記しておきますと、私は自分の投稿したコメントには“責任”を持っています。誤りであると気付けば訂正、撤回、謝罪もしています。投げたら投げっぱなしではありませんから。建設的でない無駄な人格批判はやめませんか?

音楽は楽しく

熱心なのか異常なのか?僕には後者にしか見えないし、たいていの人も同じじゃないのかな。
自分の考えをただ押し付けるだけで、議論になってないし、そもそも議論しようとなんて考えてないんじゃないのかな。
公演後のバーには誘いたくないし、誘われないタイプでしょう。

杉原砂鏡さん、失礼しました。私のコメントで、個人批判するつもりはありません。東条様自体が、そういうことをお嫌いでしょうし。
実は知人の演奏評で、とても好演だったとも聞きました。座席位置も含め、個々の聴衆の評価は、それぞれ自由です。ただ、その責任が演奏者側の「ウンザリ」にあるという印象をお書きになるのであれば、やはり多少の根拠がないと意見に説得力はないなと思った次第です。
私は、インバルのような人が「ウンザリ」した気持ちで演奏しているとは思えないのです。これも私の印象と批判されれば、それまでですが。
確か、この日は、3・11の追悼も兼ねた公演だったかと思います。違うかな。日本との関わりが深いインバルであれば、何らかの感慨はあったと思います。

余談ですが、マーラーのような大編成の曲を聴く場合、2列目というのは、ヴァイオリン奏者の直音はよくわかりますが、全体のパースペクティブを味わうには、適切な座席ではありません。もし演奏に否定的な感想を持ったとしても、少し割り引いておく方がよいかなと私は思っています。

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