2017・3・11(土)上岡敏之指揮新日本フィル マーラーの第6交響曲
すみだトリフォニーホール 6時
「すみだトリフォニーホール開館20周年記念」に「すみだ平和祈念コンサート2017」を組み合わせた演奏会の一環。2011年3月11日の「東日本大震災」と、下町方面で10万人の死者を出した1945年3月10日未明の所謂「東京大空襲」の犠牲者を追悼する演奏会のひとつ。
予定されたプログラムは、マーラーの「交響曲第6番《悲劇的》」。コンサートマスターは崔文洙。
上岡敏之が指揮するマーラーは、例のごとく一風変わった演奏だが、作品に新しい視点を提示してくれるという意味からも興味津々たるものがある。
今回も予想通り、かなり個性的な演奏になった。
冒頭の弦楽器群による荒々しい行進からして、普通の演奏に聞かれるような闘争的な、攻撃的な表情ではない。重心はしっかりしているけれども、極端に言えば一種の浮遊感さえ漂わせる不思議な軽いリズムだ。また、例のイ長調からイ短調へ一瞬のうちに移行する第57~60小節の個所でのティンパニも、狂暴な音量ではない。
━━というような特徴から、ちょっと拍子抜けのような感を与えられる。だが、スコアには、これらの個所はいずれもffやfff ではなく、単に「フォルテ」と記されているのであり、そこだけは上岡の指揮もスコアに忠実だったと言えるだろう。
とはいえ、概してその他の個所では、上岡らしいテンポの自在な伸縮や変化が聞かれる。
問題は、それらの個所で━━特に第1楽章においては、オーケストラがそのテンポの変化に応じられず、戸惑いつつ慌ててテンポを変えるというような演奏が、明らかに聞こえたのである。練習不足だったのか、それとも指揮者の即興だったのか?
ただしそのあと、両者の呼吸も次第に合って来たらしく、第4楽章ではそれなりのまとまりも聴かせてくれた。
今日の演奏を聴いて、概して感じられることは、上岡の指揮は如何にも彼ならではの柔軟な自在さを保っているが、新日本フィルのほうが━━と言っては酷かもしれないから、両者の呼吸が、と言い直しておこうか━━昨年、彼との協同作業が始まった時期よりも、逆に「合わなくなって来た」のではないか、という点だ。
歯に衣着せずに言えば、このところの新日本フィルの「音」は、アルミンクにより建て直される以前の、1990年代に逆戻りしたような印象がなくもないのだ。
思えば、1972年の創立以来、小澤征爾、小泉和裕、井上道義、少し飛んでアルミンク━━といったような傾向の人たちをシェフに置いて来た新日本フィルは、今回、上岡敏之という、全く異なる指揮のスタイルをする人を迎えている。それゆえ、今のオケの粗さは、その変化への過渡期の単なる一時的な産物に過ぎないとも言えるだろう。いや、そうとでも思わなければ、創立以来このオケを聴き続けて来た者としては、やりきれない。
この曲だけで今日は当然終りだと思い込んでいたら、意表を衝いてアンコール。マーラーの「第5交響曲」からの「アダージェット」が演奏された。これは、周知のように、6年前の「あの日」に、このオーケストラがハーディングの指揮で演奏した交響曲からのものだ。
この「5番」のほうは、13日にインバルとベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団が全曲をこのホールで演奏することになっているが、新日本フィルがそれを一部先取りしたのは、「トリフォニーのあるじ」としての意地か挨拶か、それとも犠牲者への追悼の意味を含めてか。
とにかく、遅いテンポによる矯めをいっぱいに保持しての弦とハープの沈潜した叙情的な演奏はこの上なく美しく、これこそが今日の演奏会における白眉であった。━━こういう、息の合った演奏だって、可能なのである。
※楽章順序が「マーラー協会版」であることは重々承知しておりましたが、うっかり書き間違えてしまいました。みっともない話ですね。ご指摘下さった方にお礼を申し上げます。
「すみだトリフォニーホール開館20周年記念」に「すみだ平和祈念コンサート2017」を組み合わせた演奏会の一環。2011年3月11日の「東日本大震災」と、下町方面で10万人の死者を出した1945年3月10日未明の所謂「東京大空襲」の犠牲者を追悼する演奏会のひとつ。
予定されたプログラムは、マーラーの「交響曲第6番《悲劇的》」。コンサートマスターは崔文洙。
上岡敏之が指揮するマーラーは、例のごとく一風変わった演奏だが、作品に新しい視点を提示してくれるという意味からも興味津々たるものがある。
今回も予想通り、かなり個性的な演奏になった。
冒頭の弦楽器群による荒々しい行進からして、普通の演奏に聞かれるような闘争的な、攻撃的な表情ではない。重心はしっかりしているけれども、極端に言えば一種の浮遊感さえ漂わせる不思議な軽いリズムだ。また、例のイ長調からイ短調へ一瞬のうちに移行する第57~60小節の個所でのティンパニも、狂暴な音量ではない。
━━というような特徴から、ちょっと拍子抜けのような感を与えられる。だが、スコアには、これらの個所はいずれもffやfff ではなく、単に「フォルテ」と記されているのであり、そこだけは上岡の指揮もスコアに忠実だったと言えるだろう。
とはいえ、概してその他の個所では、上岡らしいテンポの自在な伸縮や変化が聞かれる。
問題は、それらの個所で━━特に第1楽章においては、オーケストラがそのテンポの変化に応じられず、戸惑いつつ慌ててテンポを変えるというような演奏が、明らかに聞こえたのである。練習不足だったのか、それとも指揮者の即興だったのか?
ただしそのあと、両者の呼吸も次第に合って来たらしく、第4楽章ではそれなりのまとまりも聴かせてくれた。
今日の演奏を聴いて、概して感じられることは、上岡の指揮は如何にも彼ならではの柔軟な自在さを保っているが、新日本フィルのほうが━━と言っては酷かもしれないから、両者の呼吸が、と言い直しておこうか━━昨年、彼との協同作業が始まった時期よりも、逆に「合わなくなって来た」のではないか、という点だ。
歯に衣着せずに言えば、このところの新日本フィルの「音」は、アルミンクにより建て直される以前の、1990年代に逆戻りしたような印象がなくもないのだ。
思えば、1972年の創立以来、小澤征爾、小泉和裕、井上道義、少し飛んでアルミンク━━といったような傾向の人たちをシェフに置いて来た新日本フィルは、今回、上岡敏之という、全く異なる指揮のスタイルをする人を迎えている。それゆえ、今のオケの粗さは、その変化への過渡期の単なる一時的な産物に過ぎないとも言えるだろう。いや、そうとでも思わなければ、創立以来このオケを聴き続けて来た者としては、やりきれない。
この曲だけで今日は当然終りだと思い込んでいたら、意表を衝いてアンコール。マーラーの「第5交響曲」からの「アダージェット」が演奏された。これは、周知のように、6年前の「あの日」に、このオーケストラがハーディングの指揮で演奏した交響曲からのものだ。
この「5番」のほうは、13日にインバルとベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団が全曲をこのホールで演奏することになっているが、新日本フィルがそれを一部先取りしたのは、「トリフォニーのあるじ」としての意地か挨拶か、それとも犠牲者への追悼の意味を含めてか。
とにかく、遅いテンポによる矯めをいっぱいに保持しての弦とハープの沈潜した叙情的な演奏はこの上なく美しく、これこそが今日の演奏会における白眉であった。━━こういう、息の合った演奏だって、可能なのである。
※楽章順序が「マーラー協会版」であることは重々承知しておりましたが、うっかり書き間違えてしまいました。みっともない話ですね。ご指摘下さった方にお礼を申し上げます。
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数年前のブッパータールとの五番にはかなり感動したのですが今回は取って付けたような表情付けが鼻についてしまいしらけっぱなしでした。なかなか難しい指揮者と感じました。