2015・12・22(火)上岡敏之指揮読売日本交響楽団の「第9」
サントリーホール 7時
速いテンポの「第9」がもうひとつ。
私の時計では、信じられないような話だが、総計58分前後。しかも楽章間は3カ所合計で2分15秒程度はあったはずだから、演奏時間は正味56分弱ということになるか。第1楽章が12分、第2楽章が10分・・・・という具合である。
ただし、第2楽章スケルツォ前半でのリピートが無い(トリオでの反復は通常通り行われていた)。
バッティストーニ&東京フィルと並び、今年は速い「第9」が東京で同時に演奏されていることになるが、たまたま二つあったからといって、もはや稀有でない、ということにはなるまい。やはり珍しいケースであることはたしかである。
もっと驚かされるのは、特に第1楽章。
異様にレガートで、楽章全体がなだらかに、切れ目なく続く大波のように進んで行く。リズムも長めに響く。
まず冒頭の、序奏からクレッシェンドして第1主題に入る音に全く切れ目がないのに仰天させられるだろう。マエストロ上岡は楽屋で、「ベートーヴェンは、切れ目が欲しかったのなら、そこに必ず休止符を入れたはずだ」と語っていた。たしかに、スコアを見れば、弦には休止符はあるけれども、全管楽器のパートには休止符は全くない。つまり序奏と第1主題の間には、管の息継ぎはないのである。
それゆえ、上岡の採った演奏が根拠のない勝手な手法とは決して言えないのだ(「第5交響曲」の第3楽章から第4楽章に入る個所にも、その前例がある)。
もうひとつ目立ったのは、全曲を通じて、攻撃的、闘争的なフォルティシモが一切無いことだ。オーケストラは常に柔らかく、しかも膨らみのある音で鳴り続ける。力がないというのとは違う。最強音はもちろんあるのだが、それが決して怒号にも、威嚇的にも、巨人的にもならないということなのである。
これは、40年近く前にチェリビダッケが初めて読響に客演した時につくり出した、あの羽毛のように柔らかいフォルティシモと、どこか一脈通じるものがあるだろう。
前半2楽章はもちろん、第4楽章の器楽だけの部分までは快速テンポで進んで来た演奏が、声楽が登場した途端に突如として遅くなり、バリトンの叙唱が出る直前に長い総休止が置かれたり、そのくだりが悠然と歌われたりしたのは、意外な展開だ。行進曲の個所は猛烈に速いが、そのあとの祈りの個所以降は、ほぼ通常のテンポになる━━といった具合である。
ともかくこれは、非常に個性的な、最初から最後まで上岡敏之らしい「第9」である。以前N響に客演した時の惨憺たる演奏とは大違い、今度こそは「復讐戦」で、彼を理解してくれるオーケストラとともに、己のやりたい「第9」をやりぬいたというわけだろう。その解釈には、必ずしも賛意を表しかねるところもあるけれども、慎重に聴く価値のある演奏であることは間違いない。
読響(コンサートミストレス・日下紗矢子)は、さすがに上岡のこの指揮を━━多少ぎくしゃくしたところがないでもなかったが━━巧く演奏に映していた。自在なデュナミークと疾風怒濤のテンポを駆使しながら、演奏にほとんど乱れがなかったのも、さすが快調の読響だけのことはある。
協演の合唱は新国立劇場合唱団。しかし、オーケストラの柔らかい音色に合わせるには、この合唱の音色は、少しニュアンスが違うものだったのではないか。男声合唱はともかく、特にソプラノ・パートは通常と同じ絶叫型の歌い方で、全体の均衡を破ってむしろ耳を劈くように聞こえてしまっていた。
声楽ソロ陣は、イリーデ・マルティネス、清水華澄、吉田浩之、オラファ・シグルザルソン。この人たちのアンサンブルも、あまりバランスがいいとは思えない。だがその中で、ふだんは目立たないアルトのパートを歌った清水華澄が最も安定していたように感じられた。
コンサートは、これ1曲のみ。終演も早い。
速いテンポの「第9」がもうひとつ。
私の時計では、信じられないような話だが、総計58分前後。しかも楽章間は3カ所合計で2分15秒程度はあったはずだから、演奏時間は正味56分弱ということになるか。第1楽章が12分、第2楽章が10分・・・・という具合である。
ただし、第2楽章スケルツォ前半でのリピートが無い(トリオでの反復は通常通り行われていた)。
バッティストーニ&東京フィルと並び、今年は速い「第9」が東京で同時に演奏されていることになるが、たまたま二つあったからといって、もはや稀有でない、ということにはなるまい。やはり珍しいケースであることはたしかである。
もっと驚かされるのは、特に第1楽章。
異様にレガートで、楽章全体がなだらかに、切れ目なく続く大波のように進んで行く。リズムも長めに響く。
まず冒頭の、序奏からクレッシェンドして第1主題に入る音に全く切れ目がないのに仰天させられるだろう。マエストロ上岡は楽屋で、「ベートーヴェンは、切れ目が欲しかったのなら、そこに必ず休止符を入れたはずだ」と語っていた。たしかに、スコアを見れば、弦には休止符はあるけれども、全管楽器のパートには休止符は全くない。つまり序奏と第1主題の間には、管の息継ぎはないのである。
それゆえ、上岡の採った演奏が根拠のない勝手な手法とは決して言えないのだ(「第5交響曲」の第3楽章から第4楽章に入る個所にも、その前例がある)。
もうひとつ目立ったのは、全曲を通じて、攻撃的、闘争的なフォルティシモが一切無いことだ。オーケストラは常に柔らかく、しかも膨らみのある音で鳴り続ける。力がないというのとは違う。最強音はもちろんあるのだが、それが決して怒号にも、威嚇的にも、巨人的にもならないということなのである。
これは、40年近く前にチェリビダッケが初めて読響に客演した時につくり出した、あの羽毛のように柔らかいフォルティシモと、どこか一脈通じるものがあるだろう。
前半2楽章はもちろん、第4楽章の器楽だけの部分までは快速テンポで進んで来た演奏が、声楽が登場した途端に突如として遅くなり、バリトンの叙唱が出る直前に長い総休止が置かれたり、そのくだりが悠然と歌われたりしたのは、意外な展開だ。行進曲の個所は猛烈に速いが、そのあとの祈りの個所以降は、ほぼ通常のテンポになる━━といった具合である。
ともかくこれは、非常に個性的な、最初から最後まで上岡敏之らしい「第9」である。以前N響に客演した時の惨憺たる演奏とは大違い、今度こそは「復讐戦」で、彼を理解してくれるオーケストラとともに、己のやりたい「第9」をやりぬいたというわけだろう。その解釈には、必ずしも賛意を表しかねるところもあるけれども、慎重に聴く価値のある演奏であることは間違いない。
読響(コンサートミストレス・日下紗矢子)は、さすがに上岡のこの指揮を━━多少ぎくしゃくしたところがないでもなかったが━━巧く演奏に映していた。自在なデュナミークと疾風怒濤のテンポを駆使しながら、演奏にほとんど乱れがなかったのも、さすが快調の読響だけのことはある。
協演の合唱は新国立劇場合唱団。しかし、オーケストラの柔らかい音色に合わせるには、この合唱の音色は、少しニュアンスが違うものだったのではないか。男声合唱はともかく、特にソプラノ・パートは通常と同じ絶叫型の歌い方で、全体の均衡を破ってむしろ耳を劈くように聞こえてしまっていた。
声楽ソロ陣は、イリーデ・マルティネス、清水華澄、吉田浩之、オラファ・シグルザルソン。この人たちのアンサンブルも、あまりバランスがいいとは思えない。だがその中で、ふだんは目立たないアルトのパートを歌った清水華澄が最も安定していたように感じられた。
コンサートは、これ1曲のみ。終演も早い。
コメント
先ほどの投稿で日付が誤っていました。正しくは24日(東京オペラシティ)です。失礼しました。
20と26を聴きました。2楽章のラスト、あのふわっ…とした終わりかた…
中間の半疑問形のような、パウゼは、タクトが先端で余白を紡いでいました。
余韻までしっかり鳴っていたんです…
あんなに素晴らしい、マジックがかかった第9は聴いたことがありません。
終わったあと、わなわな震えがきてました。またしても上岡マエストロの図抜けた表現力に、やられました!
清水さんの安定した声は、p席でもばっちり響いていました
中間の半疑問形のような、パウゼは、タクトが先端で余白を紡いでいました。
余韻までしっかり鳴っていたんです…
あんなに素晴らしい、マジックがかかった第9は聴いたことがありません。
終わったあと、わなわな震えがきてました。またしても上岡マエストロの図抜けた表現力に、やられました!
清水さんの安定した声は、p席でもばっちり響いていました
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演奏スタイルについては21日と同じ状況でしたが、合唱はソプラノを含めそれほど絶叫型とは感じませんでした。ホールの音響を考えたのかもしれません。
余談ですが、オーケストラの弦楽器パートのメンバー数が第1ヴァイオリンから順に14、12、10、8、6でした。サントリーホールなどでも同様だったのか気になるところです。