2024-12

2015・7・30(木)広上淳一指揮京都市交響楽団 第6回名古屋定期

     愛知県芸術劇場コンサートホール  6時45分

 好調の広上淳一と京都市響の演奏を、その後なかなか聴ける機会がなかったのだが、京都よりは少し東京に近い名古屋で定期演奏会があるのを幸い、日本芸術文化振興会基金の仕事と絡め、トンボ帰りで聴きに行く。
 プログラムは、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第23番」(ソロは清水和音)、ベルリオーズの「幻想交響曲」。

 「パヴァーヌ」でのホルンが見事。その最初の音は、ふつうならしのびやかに開始されるところだが、それが実に明確なアタックで開始されたのには驚き。そういえば以前に聴いて驚嘆した「巨人」でも、広上=京響のアタックは鮮やかだった。
 アンサンブルには室内楽的な精緻さも聴かれる。こういった特徴が近年の広上=京響の身上なのかな、と感心させられる。

 その一方、2階席正面10列(実際は3列目くらい)で聴いたせいもあるのか、演奏は少々硬質で、生々しいものに感じられた。この曲の演奏は優雅典麗で玲瓏たるものであるべきだ、などと決め付けるつもりはないけれども、もう少し幻想的な趣があってもいいのではないか、という気もする。もっともこの類の演奏は、残響の長い、よく響くホールで聴けば、とても良いものに感じられるだろう。

 「幻想交響曲」になると、この小気味よい、切り込むようなアタックと、激烈で鋭角的なサウンドが、鮮やかに生きる。それほど標題的な要素が強調されているわけではない。第2楽章は壮麗な舞踏会の雰囲気とは程遠く、剛直な響きの演奏だ。
 だがその一方、第5楽章での「悪魔に変身した恋人」を描くクラリネットのソロは、極めてグロテスクに、素晴らしく演奏されていた。いずれにせよ、この革命児的な、傍若無人な咆哮が続出する奇怪な交響曲としての性格が、余すところなく発揮された演奏だったことは疑いない。

 それにしても、オケの音は、この曲でも非常にシャープに聞こえる。刺激的に過ぎるかもしれない。だが、打楽器も金管群も、とにかくよく鳴る。いわゆる「日本のオーケストラ」的な穏やかさ、なだらかさ、などとは一線を画したような演奏が面白い。こういう、良い意味でのとげとげしさ、粒立ち、ギザギザした特徴は、「パヴァーヌ」の時と同様、よく響くホールだと更にいい効果を出すだろう。

 第3楽章での、ステージ上のコール・アングレとの掛け合いで遠方から響いて来るオーボエのソロは、今回はオルガンの下の席の中に配置されていた。だがこれは、音像が近すぎて、音がリアルになり過ぎ、どうも賛同できない。
 とはいえ、楽章終り近く、オーボエがコール・アングレの呼びかけにもはや応えぬようになった時、奏者がもういなくなったあとにぽつんと立つ無人の譜面台が、不思議な寂寥感を生み出すという演出効果もあって・・・・しかしこんな感傷は、想像力の豊富な聴き手でなければ持てないものだろう。ふつうなら「譜面台が楽章の終りまで置きっぱなしになっていた」とか思われるのがオチだろうし、それではミもフタもない。

 第5楽章での弔いの鐘も、袖から響くにしては、随分と生々しくリアルに轟いた。広上は、先頃の「惑星」の女声合唱でもそうだったが、遠くから響くべき楽器を、間近で出すという嗜好があるようである(これは大野和士とも共通している)。

 モーツァルトの協奏曲も、かなり生々しい息づかいの演奏だったが、これはソリストの清水和音も同様だった。
 なお彼はアンコールで、「亡き王女のためのパヴァーヌ」のピアノ版を弾いてみせた。これはちょっと長かったものの、「2度おいしい」のクチで、面白いアイディアである。
 また、演奏会の締め括りでのオーケストラのアンコールでは、広上が小林研一郎の口真似をしてスピーチしつつ、小林の定番曲「ダニーボーイ」を演奏した。

 客席は、ほぼ満席状態。京都市響(今夜のコンマスは泉原隆志)の、カーテンコールでの楽員の表情が明るいのが素晴らしい。特に木管の女性奏者の中には、笑顔で楽器を高く掲げてみせる人もいる。いい演奏を聴いて愉しく拍手を贈る聴衆の気持も、いっそう和むというものだ。同じカーテンコールでも、「あんたら、そうやって手を叩いてるけど、こちとら毎日商売でやってるだけよ、クソ面白くも何ともねえんだ」といわんばかりの仏頂面をして立っている東京の多くのオケも━━演奏は、そりゃ上手いだろうけれども━━少しは見習ってほしいものである。

 9時15分終演。楽屋を訪ねてマエストロ広上にハローを言い、一緒にコバケン御大の物真似をしあって盛り上がったのち、急ぎ名古屋駅へ向かい、9時54分の「のぞみ」で帰京。

コメント

オーケストラの楽員の表情について、先生のご意見とまったく同様のことを毎回感じております。演奏後の楽員さんたちの和らいだ朗らかな表情は、とても心がなごみます。だって、アイドルのコンサートで、彼らが仏頂面(実際にはあり得ませんが)だったらすごく奇妙ですね。

プロの奏者は聴衆とも勝負しなければならないんですよ。それは演奏面だけでなく、自分たちを顧みてくれる聴き手を作り育てていく、つまるところいかに満足をさせてくれるかということに他ならないのでして、それを放棄するような行為をするのは少なくともプロとしてはどうなのかなあと。以前東条さんが外国の評論家だかジャーナリストの集いのときに、いろいろと日本のオケに面白くないことを言われたのはこういうところを含めてのことなのでしょうね。

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