2015・7・19(日)東京二期会 宮本亜門演出「魔笛」
東京文化会館大ホール 2時
東京二期会、久しぶりのメガ・ヒットというべきか。
リンツ州立劇場との共同制作で、歌唱、オーケストラ、舞台の3拍子そろっての見事な出来だった。
まず宮本亜門の演出。
彼らしく機知に富んだ舞台で、スピード感のある楽しさにあふれたものだ。序曲の間に、仕事がうまく行かずに自棄的になった男の家庭が崩壊するさまが「大衆的なスタイル」で描かれるが、その人物たち━━夫がタミーノとなり、妻がパミーナとなり、3人の子供が3人の童子に、祖父が弁者になって、各々が「魔笛」の物語を体験して行くという設定が、直ちに判って来る。
これはよくあるタイプの手法ではあるけれども、しかしこの「魔笛」の場合には、第2幕冒頭で「僧侶」たちが投げかける「なぜ殊更にタミーノでなければいけないのか?」という問いに応えるザラストロの、「普通の人間が愛に目覚めなくては世界に平和は訪れないのだ」という意味のコンセプトと結びつくのである。いいアイディアだと言えよう。
ただ、ラストシーンの合唱とともにこの民草の家の居間の光景が再現し、一家が元気と明るさを取り戻すというシーンが初めから見え見えになってしまうという、・・・・要するに手の内が全部見えてしまうという特徴が生じるのは、致し方なかろう。
今回は、舞台のつくりがいい。物語本体の部分では、プロジェクターの映像が全面的に活用される。舞台装置のボリス・クドルチカ、照明のマルク・ハインツ、映像のバルテク・マシス(マシアス)━━この3人は、先頃METの「青ひげ公の城」の舞台を担当したチームでもある。
どこまでが大道具で、どこからが映像なのか全く区別がつかぬくらい巧みに組み合わされている舞台で、それはもう見事なものだ。花々が風に揺れたり、壁が一気に崩れ落ちたりするさまも華麗に描かれる。
この手法だと、場面転換が瞬時に簡単にできることになり、従って「間」が空かなくて済む。これからはこのプロジェクション・マッピングが活用されることがますます多くなるだろう。
衣装(太田雅公)も、どこやらのSF映画から引っ張って来たような、宇宙人みたいな気持の悪い頭のデザインとか、飛び回る猿軍団とかいったような、シャレを感じさせるものになっている。
歌手陣。
タミーノの鈴木准、パミーナの幸田浩子、ザラストロの妻屋秀和、いずれも適役で、文句のつけようがない。とりわけパパゲーノの黒田博とモノスタトスの高橋淳は、派手な芝居巧者のコメディアン役として、前記のシリアスな3人との絶妙な対比をつくり出していた。
夜の女王役は森谷真理。先日の「リゴレット」のジルダより、こちらの役の方がきっといいだろうと予想していたが、予想通り、久しぶりに「完璧な」夜の女王の歌唱を聴くことができた。ただ、セリフ部分の声があまり通らないのは経験不足ゆえか、前記の5人に比べるとそこだけ迫力を欠いたのは惜しかった。
一方、弁者役の加賀清孝は、少し声が粗いのが気になり、また3人の侍女(日比野幸、磯地美樹、石井藍)も第1幕で妙にハーモニーのバランスが悪く、旋律性を欠いて曖昧な和声感になったのが残念。
これに対し、3人の童子(TOKYO FM少年合唱団のメンバー)が予想外に健闘していたのが面白かった。二期会合唱団もいつものように安定。
指揮は、老練デニス・ラッセル・デイヴィス。いつぞやの「フィガロの結婚」では音楽が重すぎて納得が行かなかったが、今回の「魔笛」では、その堂々たる骨太の落ち着いた音楽づくりが多くの個所で成功していた。
その風格の音楽を、読売日響ががっしりした芯の強い演奏で仕上げる。かくて、すべてのバランスが整った上演が完成されたというわけである。
それに加え、観客の入りも、東京二期会の最近の上演には珍しく、立錐の余地もない満席ぶりであった。
東京二期会、久しぶりのメガ・ヒットというべきか。
リンツ州立劇場との共同制作で、歌唱、オーケストラ、舞台の3拍子そろっての見事な出来だった。
まず宮本亜門の演出。
彼らしく機知に富んだ舞台で、スピード感のある楽しさにあふれたものだ。序曲の間に、仕事がうまく行かずに自棄的になった男の家庭が崩壊するさまが「大衆的なスタイル」で描かれるが、その人物たち━━夫がタミーノとなり、妻がパミーナとなり、3人の子供が3人の童子に、祖父が弁者になって、各々が「魔笛」の物語を体験して行くという設定が、直ちに判って来る。
これはよくあるタイプの手法ではあるけれども、しかしこの「魔笛」の場合には、第2幕冒頭で「僧侶」たちが投げかける「なぜ殊更にタミーノでなければいけないのか?」という問いに応えるザラストロの、「普通の人間が愛に目覚めなくては世界に平和は訪れないのだ」という意味のコンセプトと結びつくのである。いいアイディアだと言えよう。
ただ、ラストシーンの合唱とともにこの民草の家の居間の光景が再現し、一家が元気と明るさを取り戻すというシーンが初めから見え見えになってしまうという、・・・・要するに手の内が全部見えてしまうという特徴が生じるのは、致し方なかろう。
今回は、舞台のつくりがいい。物語本体の部分では、プロジェクターの映像が全面的に活用される。舞台装置のボリス・クドルチカ、照明のマルク・ハインツ、映像のバルテク・マシス(マシアス)━━この3人は、先頃METの「青ひげ公の城」の舞台を担当したチームでもある。
どこまでが大道具で、どこからが映像なのか全く区別がつかぬくらい巧みに組み合わされている舞台で、それはもう見事なものだ。花々が風に揺れたり、壁が一気に崩れ落ちたりするさまも華麗に描かれる。
この手法だと、場面転換が瞬時に簡単にできることになり、従って「間」が空かなくて済む。これからはこのプロジェクション・マッピングが活用されることがますます多くなるだろう。
衣装(太田雅公)も、どこやらのSF映画から引っ張って来たような、宇宙人みたいな気持の悪い頭のデザインとか、飛び回る猿軍団とかいったような、シャレを感じさせるものになっている。
歌手陣。
タミーノの鈴木准、パミーナの幸田浩子、ザラストロの妻屋秀和、いずれも適役で、文句のつけようがない。とりわけパパゲーノの黒田博とモノスタトスの高橋淳は、派手な芝居巧者のコメディアン役として、前記のシリアスな3人との絶妙な対比をつくり出していた。
夜の女王役は森谷真理。先日の「リゴレット」のジルダより、こちらの役の方がきっといいだろうと予想していたが、予想通り、久しぶりに「完璧な」夜の女王の歌唱を聴くことができた。ただ、セリフ部分の声があまり通らないのは経験不足ゆえか、前記の5人に比べるとそこだけ迫力を欠いたのは惜しかった。
一方、弁者役の加賀清孝は、少し声が粗いのが気になり、また3人の侍女(日比野幸、磯地美樹、石井藍)も第1幕で妙にハーモニーのバランスが悪く、旋律性を欠いて曖昧な和声感になったのが残念。
これに対し、3人の童子(TOKYO FM少年合唱団のメンバー)が予想外に健闘していたのが面白かった。二期会合唱団もいつものように安定。
指揮は、老練デニス・ラッセル・デイヴィス。いつぞやの「フィガロの結婚」では音楽が重すぎて納得が行かなかったが、今回の「魔笛」では、その堂々たる骨太の落ち着いた音楽づくりが多くの個所で成功していた。
その風格の音楽を、読売日響ががっしりした芯の強い演奏で仕上げる。かくて、すべてのバランスが整った上演が完成されたというわけである。
それに加え、観客の入りも、東京二期会の最近の上演には珍しく、立錐の余地もない満席ぶりであった。
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大倉由紀江、佐藤征一郎、小林一男などの個性豊かな人たちが、日本語のセリフひとことで客席をゾクッとさせた時代の二期会は、もう戻らないでしょうか。
この先も海外の有名オペラ座との提携が多いようですが、原点も忘れずにいてほしいと願います。