2015・2・17(火)尾高忠明指揮札幌交響楽団 東京公演
サントリーホール 7時
この3月で、11年に及んだ札響音楽監督としての務めを全うする尾高忠明━━その任期中最後の定期公演(2月)で演奏したシベリウスの交響曲「第5番」「第6番」「第7番」を引っ提げての東京公演だ。
「シベリウス生誕150年記念」と銘打たれてはいるが、3年がかりで展開したシベリウス交響曲ツィクルスの最終回をここに持って来て合わせた、ともいえよう。また、尾高が英国音楽とともに最も得意とするレパートリー、シベリウスの交響曲をもって音楽監督の任期を閉じる、というねらいもあっただろう。
とにかく、札幌の定期で2回演奏して来たこれらの交響曲、尾高も札響も自信満々といった様子がステージから伝わって来る。札響の数多い東京公演の中でも、これは最高水準に属する演奏であった。尾高の時代に札響が同団史上最高のレベルに達したということは、いろいろな面から見ても事実といえようが、今日の演奏を聴けば、まさにそれが納得できるのではあるまいか。
「5番」第1楽章コーダにおける劇的な追い込みと昂揚の素晴らしさをはじめ、終楽章終結での轟くような歓呼は、札響としては稀有なほどの底力のあるエネルギーを感じさせた。「6番」第1楽章冒頭での弦楽器群の澄み切った音色は見事だったし、「7番」における豊麗な音の構築も強く印象に刻まれる。
「5番」と「7番」を分厚い構築の音で、中に挟んだ「6番」をシャープで攻撃的なアプローチで━━という設定は、もちろん作品の性格にも因ったものではあろうが、同時に、この3曲を並べたプログラムにおける尾高の巧みな性格づけの設計でもあるのではないか、という気もする。
そして何より見事だったのは、この3曲の演奏で、音楽がわずかでも弛緩した個所は、ただの一か所も無かった、ということであった。
アンコールには、待望の━━といっても、私が勝手にそう思っていただけの話だが、シベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」が演奏された。弦楽器群がシンの強い音で旋律を進めて行く。尾高の指揮するこの曲は、以前にも聴いて大いに気に入っていたので、世間並みの「悲しきワルツ」なんかより、これをアンコール曲の定番にすればいいのに・・・・と書いたことがある。私ごときが言ったからどうこうということではもちろんないだろうが、最後にこれが聴けたことは、幸いだった。これもいい演奏だった。シベリウス愛好家としては、至極満足の演奏会であった。
「7番」の快演が終った瞬間、上手側席あたりから「よっしゃ」といったような声がかかったのは、聞き違いか? 「ブラーヴォ」を日本語訳で叫ぶ国産愛用主義者というか、国粋主義者(?)には時たま出会う━━私がこれまでに聞いたものには、「よーし」「素晴らしい」「ありがとう」「ご苦労さん」「いやァお疲れさん」などがあるが、「よっしゃ」というのは初めてである・・・・。また今日はあのフェルマータ付きの、どこからともなく響いて来る「ブラヴォ━━ォ」も久しぶりに聞けた。
もうひとつ、今日はカーテンコールの際に、尾高が立たせて答礼させた奏者は「7番」のあとでのトロンボーン奏者のみ、その他はすべてテュッティでの答礼にさせていた。彼がいつからこういうスタイルを採るようになったのかは知らないし、またこのへんの「ウラの事情」について云々するのは当コラムでは御法度にしているから省くが、マエストロ尾高のステージとしては、あまり見ない光景であったことはたしかだろう。
☞別稿 音楽の友4月号演奏会評
この3月で、11年に及んだ札響音楽監督としての務めを全うする尾高忠明━━その任期中最後の定期公演(2月)で演奏したシベリウスの交響曲「第5番」「第6番」「第7番」を引っ提げての東京公演だ。
「シベリウス生誕150年記念」と銘打たれてはいるが、3年がかりで展開したシベリウス交響曲ツィクルスの最終回をここに持って来て合わせた、ともいえよう。また、尾高が英国音楽とともに最も得意とするレパートリー、シベリウスの交響曲をもって音楽監督の任期を閉じる、というねらいもあっただろう。
とにかく、札幌の定期で2回演奏して来たこれらの交響曲、尾高も札響も自信満々といった様子がステージから伝わって来る。札響の数多い東京公演の中でも、これは最高水準に属する演奏であった。尾高の時代に札響が同団史上最高のレベルに達したということは、いろいろな面から見ても事実といえようが、今日の演奏を聴けば、まさにそれが納得できるのではあるまいか。
「5番」第1楽章コーダにおける劇的な追い込みと昂揚の素晴らしさをはじめ、終楽章終結での轟くような歓呼は、札響としては稀有なほどの底力のあるエネルギーを感じさせた。「6番」第1楽章冒頭での弦楽器群の澄み切った音色は見事だったし、「7番」における豊麗な音の構築も強く印象に刻まれる。
「5番」と「7番」を分厚い構築の音で、中に挟んだ「6番」をシャープで攻撃的なアプローチで━━という設定は、もちろん作品の性格にも因ったものではあろうが、同時に、この3曲を並べたプログラムにおける尾高の巧みな性格づけの設計でもあるのではないか、という気もする。
そして何より見事だったのは、この3曲の演奏で、音楽がわずかでも弛緩した個所は、ただの一か所も無かった、ということであった。
アンコールには、待望の━━といっても、私が勝手にそう思っていただけの話だが、シベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」が演奏された。弦楽器群がシンの強い音で旋律を進めて行く。尾高の指揮するこの曲は、以前にも聴いて大いに気に入っていたので、世間並みの「悲しきワルツ」なんかより、これをアンコール曲の定番にすればいいのに・・・・と書いたことがある。私ごときが言ったからどうこうということではもちろんないだろうが、最後にこれが聴けたことは、幸いだった。これもいい演奏だった。シベリウス愛好家としては、至極満足の演奏会であった。
「7番」の快演が終った瞬間、上手側席あたりから「よっしゃ」といったような声がかかったのは、聞き違いか? 「ブラーヴォ」を日本語訳で叫ぶ国産愛用主義者というか、国粋主義者(?)には時たま出会う━━私がこれまでに聞いたものには、「よーし」「素晴らしい」「ありがとう」「ご苦労さん」「いやァお疲れさん」などがあるが、「よっしゃ」というのは初めてである・・・・。また今日はあのフェルマータ付きの、どこからともなく響いて来る「ブラヴォ━━ォ」も久しぶりに聞けた。
もうひとつ、今日はカーテンコールの際に、尾高が立たせて答礼させた奏者は「7番」のあとでのトロンボーン奏者のみ、その他はすべてテュッティでの答礼にさせていた。彼がいつからこういうスタイルを採るようになったのかは知らないし、またこのへんの「ウラの事情」について云々するのは当コラムでは御法度にしているから省くが、マエストロ尾高のステージとしては、あまり見ない光景であったことはたしかだろう。
☞別稿 音楽の友4月号演奏会評
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