2014・12・14(日)パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィル・ブレーメン
「ブラームス・シンフォニック・クロノロジー」第4日
東京オペラシティコンサートホール 7時
パーヴォとドイツ・カンマーフィルによるブラームス・ツィクルスの、これが最終日。今日も客席は満杯である。
プログラムは、「悲劇的序曲」、「二重協奏曲」、「交響曲第4番」。協奏曲でのソロは、ヴァイオリンのクリスティアン・テツラフ、チェロのターニャ・テツラフ。
圧巻は、やはり「二重協奏曲」だった。ブラームス晩年の、瞑想的で渋い曲調を持っていると言われて来たこの作品が、今回の演奏では、非常に躍動的で勢いにあふれた音楽として立ち現れた。瞑想的で渋いのもそれはそれで素晴らしい魅力だが、この日のようなアプローチでこの曲を聴くのも新鮮で愉しいものである。
「第4交響曲」も悪くない演奏だったが、「1番」や「2番」の演奏に比べると、それらで聴かれたような斬新な「破竹の進撃」(?)のイメージがやや薄れていた・・・・よく言えば温厚、悪く言えば常套的な範囲に留まっていたような印象も受けた━━印象だからアテにはならないが。
しかしとにかく、彼らの演奏には、音楽が活力で燃え立っているという愉しさがある。綺麗にまとまっていても音楽の歓びが感じられないような演奏より、どれだけ好いか。
この演奏会から2時間置いてサントリーホールで行なわれるポゴレリッチのリサイタルをも聴きたかったが、なにしろ咳を堪えるのが苦しい。あの凄まじい緊迫感がホール中を覆い尽くす彼のコンサートで咳など連発しようものなら、どんなことになるかわからない。遠慮する。
パーヴォとドイツ・カンマーフィルによるブラームス・ツィクルスの、これが最終日。今日も客席は満杯である。
プログラムは、「悲劇的序曲」、「二重協奏曲」、「交響曲第4番」。協奏曲でのソロは、ヴァイオリンのクリスティアン・テツラフ、チェロのターニャ・テツラフ。
圧巻は、やはり「二重協奏曲」だった。ブラームス晩年の、瞑想的で渋い曲調を持っていると言われて来たこの作品が、今回の演奏では、非常に躍動的で勢いにあふれた音楽として立ち現れた。瞑想的で渋いのもそれはそれで素晴らしい魅力だが、この日のようなアプローチでこの曲を聴くのも新鮮で愉しいものである。
「第4交響曲」も悪くない演奏だったが、「1番」や「2番」の演奏に比べると、それらで聴かれたような斬新な「破竹の進撃」(?)のイメージがやや薄れていた・・・・よく言えば温厚、悪く言えば常套的な範囲に留まっていたような印象も受けた━━印象だからアテにはならないが。
しかしとにかく、彼らの演奏には、音楽が活力で燃え立っているという愉しさがある。綺麗にまとまっていても音楽の歓びが感じられないような演奏より、どれだけ好いか。
この演奏会から2時間置いてサントリーホールで行なわれるポゴレリッチのリサイタルをも聴きたかったが、なにしろ咳を堪えるのが苦しい。あの凄まじい緊迫感がホール中を覆い尽くす彼のコンサートで咳など連発しようものなら、どんなことになるかわからない。遠慮する。
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全四日を聴いて
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編成は、ヴァイオリンとヴィオラは10型の10-8-6。チェロと バスは12型の6-4。まとめれば10-8-6-6-4という低音増強の変則型でした。
作品と演奏の感銘では、初日のピアノ協奏曲第1番&交響曲第1番が随一だったと感じています。第1協奏曲は演奏する側も聴く側も難渋する作品ですが、その理由を示してくれた演奏表現でした。第1楽章でのオケの苦悩と逡巡、そして青年ブラームスのヴィルオゥオーゾ・ピアニストとしての誇りが錯綜しながら行きつ戻りつする様は聴きものでした。第2楽章ではシューマンの死に対する悲しみと、それを超えるかのようなクララへの愛情告白と思える祈りの音楽が果てることなく続きます。そして終楽章では一変して理屈っぽい書法に突如ヘンシ〜ン!シューマンを、ベートーヴェンを、バッハまでも引き合いに出すといった具合。この14歳年下の青年に臆面も無く告白されたクララはどう感じたのでしょう。少なくとも終楽章を聴いて「まあ、かわいい坊やね」と微笑んだことでしょう。
「歩く自己批判」とも喩えるべきブラームスが、この曲を破棄せずに出版したのは、第2楽章のクララへのあからさまな告白が実現できた故ではないかと、私は勘繰ってしまった演奏でした。
第1響曲は完成と同じ年にワーグナーがバイロイト祝祭劇場をオープンした年でもあります。ブラームスはベートーヴェンを継ぐシンフォニストとしての自己をアピールする芸術家としての自負をこの曲に込めたことはよく知られていることです。その一方でワーグナーに対抗する世俗的な野心も強かった筈です。パーヴォ・ヤルヴィ&ドイツカンマーフィルは、その野心的なブラームスの面持ちをはっきり強調した表現によって、この偉大な作品に潜む本質の一端を、素顔のブラームスを、聴かせてくれたように思います。
2日目の第2交響曲は、恰もこの作品のアナリーゼを丁寧に読み解くような演奏。その最初の3音によって、既にフィナーレのテンポと作品の品格までもが縛られてしまうこの作品です。その徹底した論理性を教えてくれるレッスンのような演奏でした。見事な設計が光る演奏でもありました。満足です。
3日目は箸休めのような趣。協奏曲第2番も第3交響曲も難曲揃いでしたから、今のパーヴォには仕方が無いかも知れません。
4日目も大変な曲の第4番が待ち構えていました。しかし第4番は曲の構造も書法も付け入る隙がない程に精緻且つ堅固ですから、演奏側が下手に振る舞う余地など殆ど無い。もし下手に弄ったら下品になるだけですから、パーヴォも素直にブラームスの譜面に従ったのでしょう。よくできた曲のよくできた演奏でこのプロジェクトを締めくくってくれました。
尚、彼らに限ったことではありませんが、アンコールは無用に願いたいと思ったのは私だけでしょうか。本編だけで真剣勝負を望みたかった4日間でもありました。私の席は中央列のど真ん中ですから、熱心に拍手を送る人々を遮って抜け出すことも難しく、耳を塞いで我慢するしかありませんでした。因みに前週にこのホールで行われた大友直人指揮群馬交響楽団公演では、エルガー第1番を終えてアンコール無し。大友直人らしい見識を示していました。