2014・12・4(木)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団
メシアン:トゥーランガリラ交響曲
サントリーホール 7時
読響委嘱作品、酒井健治作曲の「ブルーコンチェルト」世界初演と、メシアンの「トウーランガリラ交響曲」を組み合わせた重量感たっぷりのプログラム。
カンブルランと読響は、来年春の欧州旅行(ベルリン、ケルン、ユトレヒト、ブリュッセルなど)に、この2曲を持って行くという。
今夜の「トゥーランガリラ」では、ピアノにアンジェラ・ヒューイット、オンド・マルトノにシンシア・ミラーが協演していた。
カンブルランと読響の「トゥーランガリラ」といえば、思い起こす2006年の12月15日、このサントリーホールで行われた、両者初共演の際の演奏だ。当時の日記を繰ってみると、比較的あっさりしていて、最後は何となくスッと終ってしまった、しかし実に華麗な演奏だった・・・・などというメモが残っている。
今回の演奏も、たしかに華麗ではあるが、決して濃厚なものではない。あまり毒々しくも凶暴でもなく、むしろその端整なほどの美しさが強く印象に残る。ストラヴィンスキー的な凶暴な狂乱でなく、洗練された調和が守られているという点では、やはりドビュッシーやラヴェルの流れを引く、まさしくフランス音楽の潮流の中に位置する「トゥーランガリラ」と言えるかもしれない。
オーケストラの響きには完璧な均衡が保たれ、金管群の咆哮もあまり突出することなく、オーケストラ全体の調和の中に溶け込んでいるといった感がある。その一方では、この曲の演奏ではとかく薄れがちな旋律的な美しさも、思いがけなく浮き彫りにされるといった具合だ。
これ見よがしに絶叫する「虎狩交響曲」の演奏は、私はあまり好きではないので、この日の演奏は、私には大いに快かった。これほど美しい「トウーランガリラ」の演奏は、そう多くはあるまい。
今回は練習時間が非常に少なかったそうで、中には1回通しただけの楽章もあったという話だが、それにもかかわらずこれだけの演奏水準を示したカンブルランと読響の力量には感嘆の極みである。
ヒューイットのピアノは音の明晰さ、表情の豊かさとともに非常に際立った個性を示し、時にはピアノ・コンチェルトのような存在感を誇示していた。
ミラーによるオンド・マルトノも、昔のこの楽器とはだいぶ違い、まろやかで美しい。「昔の楽器はピーピーうるさかったね」と、隣で聴いていた金子建志さんに言ったら、「今の楽器はアンプが違うからね」と。
ところで、前半に演奏されたのは、ベルリン在住の若手作曲家、酒井健治の「ブルーコンチェルト」。多くの打楽器も取り入れた大編成の、20分近い長さのオーケストラ曲だ。
多彩で変化にとんだ音色、興味深いさまざまな手の混んだ構築など、管弦楽の機能を余すところなく発揮させようという意気込みが感じられる作品である。
ありとあらゆる手法を総動員したような作品だな、という印象だったが、残念ながら私は、この念入りな曲を、たった1回、スコアも見ずに聴いただけであれこれ云々する力は持ち合わせていない。
いつか単独でこの曲をもう一度聴いてみれば、もっとたくさんのことがつかめるであろう━━と思ったのはほかでもない、「トゥーランガリラ」という巨大な交響曲の前に、それとほとんど同じような傾向をもった濃密な音の(「メシアンへのオマージュである」と酒井氏もプログラム解説で述べている)、しかも20分近い長大なオーケストラ曲を聴くことは、感覚的には何とも過重なものである。これは、コンサートとしても、あまり賢明なプログラミングではないのではないか、とさえ思う。
読響委嘱作品、酒井健治作曲の「ブルーコンチェルト」世界初演と、メシアンの「トウーランガリラ交響曲」を組み合わせた重量感たっぷりのプログラム。
カンブルランと読響は、来年春の欧州旅行(ベルリン、ケルン、ユトレヒト、ブリュッセルなど)に、この2曲を持って行くという。
今夜の「トゥーランガリラ」では、ピアノにアンジェラ・ヒューイット、オンド・マルトノにシンシア・ミラーが協演していた。
カンブルランと読響の「トゥーランガリラ」といえば、思い起こす2006年の12月15日、このサントリーホールで行われた、両者初共演の際の演奏だ。当時の日記を繰ってみると、比較的あっさりしていて、最後は何となくスッと終ってしまった、しかし実に華麗な演奏だった・・・・などというメモが残っている。
今回の演奏も、たしかに華麗ではあるが、決して濃厚なものではない。あまり毒々しくも凶暴でもなく、むしろその端整なほどの美しさが強く印象に残る。ストラヴィンスキー的な凶暴な狂乱でなく、洗練された調和が守られているという点では、やはりドビュッシーやラヴェルの流れを引く、まさしくフランス音楽の潮流の中に位置する「トゥーランガリラ」と言えるかもしれない。
オーケストラの響きには完璧な均衡が保たれ、金管群の咆哮もあまり突出することなく、オーケストラ全体の調和の中に溶け込んでいるといった感がある。その一方では、この曲の演奏ではとかく薄れがちな旋律的な美しさも、思いがけなく浮き彫りにされるといった具合だ。
これ見よがしに絶叫する「虎狩交響曲」の演奏は、私はあまり好きではないので、この日の演奏は、私には大いに快かった。これほど美しい「トウーランガリラ」の演奏は、そう多くはあるまい。
今回は練習時間が非常に少なかったそうで、中には1回通しただけの楽章もあったという話だが、それにもかかわらずこれだけの演奏水準を示したカンブルランと読響の力量には感嘆の極みである。
ヒューイットのピアノは音の明晰さ、表情の豊かさとともに非常に際立った個性を示し、時にはピアノ・コンチェルトのような存在感を誇示していた。
ミラーによるオンド・マルトノも、昔のこの楽器とはだいぶ違い、まろやかで美しい。「昔の楽器はピーピーうるさかったね」と、隣で聴いていた金子建志さんに言ったら、「今の楽器はアンプが違うからね」と。
ところで、前半に演奏されたのは、ベルリン在住の若手作曲家、酒井健治の「ブルーコンチェルト」。多くの打楽器も取り入れた大編成の、20分近い長さのオーケストラ曲だ。
多彩で変化にとんだ音色、興味深いさまざまな手の混んだ構築など、管弦楽の機能を余すところなく発揮させようという意気込みが感じられる作品である。
ありとあらゆる手法を総動員したような作品だな、という印象だったが、残念ながら私は、この念入りな曲を、たった1回、スコアも見ずに聴いただけであれこれ云々する力は持ち合わせていない。
いつか単独でこの曲をもう一度聴いてみれば、もっとたくさんのことがつかめるであろう━━と思ったのはほかでもない、「トゥーランガリラ」という巨大な交響曲の前に、それとほとんど同じような傾向をもった濃密な音の(「メシアンへのオマージュである」と酒井氏もプログラム解説で述べている)、しかも20分近い長大なオーケストラ曲を聴くことは、感覚的には何とも過重なものである。これは、コンサートとしても、あまり賢明なプログラミングではないのではないか、とさえ思う。
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