2024-12

2013・8・27(火)ザルツブルク音楽祭(2)
ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」ヘアハイム演出

    ザルツブルク祝祭大劇場  6時

 開演前から幕が開いたままの、ハンス・ザックス親方の仕事場の舞台装置があまりに写実的なので、これがシュテファン・ヘアハイムの演出?と愕然とさせられる。

 だが、ヘイケ・シェーレによるこの装置はちょっと洒落た使い方になっていて、白いカーテンが引かれるとそれがスクリーン映像としてズーム・アップされ、その間に幕の向こう側で舞台は第1幕や第2幕の場面に変化するという具合で、なかなか要領がいい。
 しかもその舞台装置は、すべてザックスの部屋にある調度家具(仕事机やらタンスやら抽斗やら)を巨大に拡大したものになっている。即ち、これから舞台で起こるさまざまな出来事は、すべてザックスのイメージの中で繰り広げられるもの、あるいは彼の創作の中で描かれる物語である――という設定を意味するのだろう。

 その通り、ヘアハイム(ドラマトゥルギーはアレクサンダー・マイアー=デルツェンバッハ)は、ハンス・ザックスをこのドラマの主人公かつ狂言回し的な存在に設定し、彼らしく、かなり趣向を凝らした演出を試みていた。
 ここでは、ザックスの「ニュルンベルクの落ち着いた指導者」としての外面からは窺い知れない、意外な内面も併せて描かれる。詩が完成したといっては躍り上がって喜ぶ無邪気な詩人、だがラストシーンでベックメッサーが手を差し延べて来ても怯えたように拒否してしまう弱い性格の人間、舞台手前に飾ってあるワーグナーの胸像のうしろから月桂冠を拾い上げ、そっと自分の頭に載せてしまう見栄っ張りな性格、・・・・これまで描かれて来た巨匠ハンス・ザックス像とは、えらい違いだ。それが面白い。

 ドラマは、第1幕前奏曲の前、ザックスが独り情熱的に、しかし慌しく詩作に耽り、作品の完成に喜び、踊り回りつつ、ハタと「観客の目」に気がつき、慌てて白いカーテンを引いて隠れる光景で開始される。
 そして全曲の最後は、再び仕事場で独り詩作にいそしむザックスの姿で結ばれる。この手法は特に画期的なものとは言えない(日本でもアルブレヒト指揮で上演された高島勲&フォン・ギールケのプロダクションが少し似たような発想を持っていた)が、このヘアハイム版の方が派手だ。

 かつて妻と子を喪ったザックスの孤独感も、冒頭で具体的に描かれる。
 だがそれより、ポーグナー親方の娘エーファとの愛がこれほどリアルに描写されたのも珍しいだろう。第1幕冒頭シーンで彼はエーファに「愛をささやく」が、これはおそらく空想のシーンではなかろうか? 
 そして、ポーグナー親方が娘を騎士ヴァルターと結婚させるという計画を聞いたザックスの嫉妬の怒りの激しいこと! ト書きにある「ポーグナー親方への協力姿勢」など何処へやら、彼との握手も拒むほどの憤懣やるかたない様子。だがそれでいながら、ヴァルターの新しい芸術を認め、エーファへの恋を諦めて2人の結婚を認めてやるという公正さを持つザックスなのである(これはト書き通りに演出される)。
 なお、ザックスが秘かに仕事場に飾ってあったエーファの肖像画を、彼女がはからずも目にし、初めて彼の深い愛を知って号泣するという設定も興味深い。

 ラストシーン、ザックスが「ドイツが直面する侵略の危機」と「ドイツ芸術の不滅」を訴える場面は、ドイツでの上演の場合は政治的な理由から演出家が「逃げ」に苦労するところだ。
 今回の演出では、舞台が突然暗くなり、背景の人々の動きが激しくなり、再び明るくなった時には、舞台にはもうエーファも、ヴァルターも、親方たちもいない・・・・ザックスを囲むのは、ただ無邪気な一般大衆のみ、という設定になった。
 彼が人間として接していた人々はすべて存在しなくなってしまい、無関係な、彼の芸術を讃える群集だけが彼を囲む。ザックスは耳を抑えて突っ伏すが、それは彼の複雑な内心を物語っているだろう。
 これに続いて、前述の幕切れの彼の孤独な場面に移る――というわけだ。この一連の光景は、寂寥感、空虚感を醸し出して、一種の凄味を滲ませる。

 人々の演技はかなり細かい。親方たちの動きはちょっと戯画化されており、一緒にこけたりする様子は喜劇的だ。第1幕で「始めよ!」の声に応じてヴァルターが挑戦的に剣を抜いて歌い始める瞬間に、親方衆全員がいっせいに仰け反って倒れ、「新しいタイプの歌」に面食らって床にのたうちまわる。こういう具合だから、あとは推して知るべし。画一化された社会への皮肉、と受け取れぬこともないが。

 さて、今回の指揮は、ダニエレ・ガッティだった。この人、バイロイトの「パルジファル」の成功でワーグナー指揮者としても男を上げ、最近はやたらモテているが、その後いくつか彼の指揮を聴いてみても、どうもピンと来ない。取り立てて悪いというほどではない。が、つくる音楽がガサガサして粗いし、余情もふくらみも感じられない、という印象なのだが、どうだろう? 今日の演奏も、ウィーン・フィルの柔らかい、開放的な音色に助けられた感もないではない。誰か数人、ブーイングを飛ばしていた連中がいた。

 ハンス・ザックス親方はミヒャエル・フォレ。立派な親方と、些か軽薄に見える内側の姿とを見事に演じ分けていたし、あまり深刻にならぬ歌いぶりが、今回の演出には合っていただろう。
 気の毒な役回りだがオペラでは最高の儲け役であるベックメッサーはマルクス・ヴェルバで、個性にはいま一つだが熱演していた。

 エーファのアンナ・ガブラー、ダーヴィトのペーター・ゾーンらも、それほど強い個性の持主というわけでもないので、何となく舞台と群集の中に埋没してしまっているという感を拭えない。ヴァルター(ロベルト・サッカ)は騎士というより将校といったいでたちだが、言っては何だが、歌唱も演技もあまり映えない。常に客席を向いて歌う癖があるのはいかがなものか。――というわけで、他の親方たちも含め、歌手陣の個性はそれほど強くなく、演出に呑み込まれてしまったようだ。

 なおこれは、パリ・オペラ座との共同制作。今夜がこの音楽祭での最終公演だった。
 30分の休憩2回を挟み、終演は深夜11時35分になった。外は小雨である。

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