2024-12

2013・8・26(月)ザルツブルク音楽祭(1)
サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィル 「春の祭典」他

   ザルツブルク祝祭大劇場  8時

 シェーンベルクの「浄夜」、ベルクの「ヴォツェック」から3つの場面、ストラヴィンスキーの「春の祭典」という、すこぶる手応えのあるプログラム。

 「浄夜」は大編成の弦楽合奏で演奏されたが、さすがラトルの指揮、こういう形で演奏される時によく出る特徴「後期ロマン派的な、むせ返るような豊麗な官能の世界」など、影も形もない。
 デュナミークの対比は強烈で、音楽の流れは非常に起伏が大きく、激しい。なだらかな旋律の内側にそっと短い音型が加わる個所など、普通なら和声的な厚みが増したと感じられるところだが、ラトルの指揮ではそれがしばしば強いアクセントで切り込むように割り込んで来るので、その都度、思いがけない一撃を食らわされたような感覚になり、ぎくりとさせられる。

 曲の標題となっているリヒャルト・デーメルの詩を、もしこの演奏に当てはめるなら、月下の木立の中を歩く男女の想いはさぞや焦燥と苦悩に満ちており、激しい口論も起こる――という具合なのだろう。これほど刺激的な「浄夜」は、めったに聴いたことがない。ベルリン・フィルの弦楽セクションの巧いこと。樫本大進は、今夜はトップサイドで弾いている。

 「ヴォツェック」からの3章を歌ったのは、近代音楽のレパートリーで最近話題のバーバラ・ハンニガン(ソプラノ)。昨年秋の東京での「リゲティ・コンサート」を残念ながら聞き逃してしまったこともあり、今回は楽しみにしていた。
 今夜は、マリーの2つの場面と、ラストシーンの子どもの遊びの場面とを歌ってくれたが、まさに見事なものだ。マリーの「兵隊さん」の冒頭など、昔のロッテ・レーニャの頽廃的雰囲気を思わせるような歌唱で始まり、それがやがて明晰な現代的な歌唱スタイルに転じ、激情的で物狂おしげなマリーのモノローグに移って行くあたり、雄弁な表現が素晴しい。舞台上のちょっとした演技も、エンターテイナー的な魅力たっぷりである。
 ラストシーンの「Hopp,hopp!」は、もちろん子どもの声を真似てはいなかったが、今回のようにドラマティックに歌われるのも凄味があって面白い。

 もちろん、ラトルとベルリン・フィルの重量感も大変なものだ。ヴォツェックが死んだあとに奏されるあの悲劇的な音楽も、詠嘆調というより、不条理な社会への怒りをぶつけるような、鋭い、激烈な表現だ。――ラトルの指揮する「ヴォツェック」の全曲を、ナマで一度聴いてみたいものである。

 前半の2曲での楽しさが大きかったので、後半の「春の祭典」は、まあ彼らならこのくらい出来て当然だろう、という程度の印象になってしまったのは申し訳ない。
 それにしても、「春のきざし」で不規則に断続的に響く和音のところ、舞台奥のホルン群の音が客席にほんの何分の1秒か遅れて響いて来るのだが、その音のずれが、むしろ怪獣が低く咆哮しているような物凄さを生む面白さ。ベルリン・フィルの重量感ならではの迫力だろう。

 夕方着いたその足でコンサートやオペラを聴きに行くのは、最近は体調を崩すもととなるので控えていたが、今日の演奏会はそうした疲れも吹き飛ばしてくれる楽しいものだった。
 ザルツブルク、天候はあまりよくなく、気温も20℃前後、夜は10℃前後とか。しかし、空気が快い。

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