2013・8・23(金)サイトウ・キネン・フェスティバル松本2013(1)
ラヴェル:「子どもと魔法」「スペインの時」
まつもと市民芸術館主ホール 7時
天皇・皇后両陛下の臨席のため、セキュリティ・チェックがあり、入場者は空港にあるようなゲートをくぐらされ、手荷物は別ルートを通すというものものしさ。上演後に皇族が退場するまでは客席のドアはすべて閉じられ、一般客も足止めをされる。
いまどき東京ではとっくに廃れたやり方だが、地方ではまだこういう大時代的な風習(?)が残っている。もっとも今回は、小澤征爾が指揮した前半の演目「子どもと魔法」が終ると両陛下は帰られたので、終演後の混乱は起こらずに済んだ。
だが、エントランスやロビー内をはじめ各ドアには黒服の無愛想な男たちが突っ立っており、そのため、かつてのような明るく華やいだ、インティメートな雰囲気がホールから全く消えていたのには落胆させられた。しかも客席は、セキュリティのためか、左右のバルコン席は、上から下まで、すべてがら空きにされていたのである(売れなかったわけではないはずだ)。このため、初日公演にもかかわらず、場内には何となく寒々とした雰囲気が漂っていた。
長年親しまれて来たサイトウ・キネン・フェスティバル(SKF)が、事務局スタッフの全面的な入れ替えなどが影響して、こういう堅苦しい雰囲気に変わったのだとしたら、それは悲しむべき状況であろう。今日のこれが、あくまで特殊なものであったに過ぎないことを願いたいものである。
さて、小澤征爾が、今回は元気で指揮をした! と言っても、2つのオペラのうち、前半の「子どもと魔法」だけだったが、それでもここ数年の彼の体調を考えれば、彼がまた指揮できる状態になったということ自体、うれしいことだ。
サイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)も「息を吹き返した」演奏というべきか、時に現われるテュッティの個所では文字通り馥郁たる音色を響かせたが、こういう音色はこのオーケストラからはここしばらく聴かれなかったものである。
今回、小澤はかなり「間」を採った指揮をしていたので、音楽の流れが少し滞るような印象もなくはなかったけれど、とにかく彼の最も得意とするレパートリーの一つ、フランスものの、しかもラヴェルであるだけに、悪かろうはずはない。
一方、後半の「スペインの時」は、ステファヌ・ドゥネーヴ(シュトゥットガルト放送響首席指揮者、先日来日した)が指揮した。
こちらはコミックな性格のオペラだし、音楽も躍動的なところが多い。ドゥネーヴもそれなりにまとまった指揮を聴かせた。しかし前半の小澤の指揮に比べると、やはり音楽の「色気」の無さは争えず。――あるいはオーケストラが、小澤の指揮の時ほどに燃え立たなかったのかもしれない。
もっとも、SKOも強豪ぞろいの名団体であるからには、指揮者によってそんなに演奏に「差をつける」ようでは困るのだが。
演出はロラン・ペリー。グラインドボーン音楽祭(昨年大野和士が指揮した)との共同制作。舞台美術は前者がバルバラ・デ・リンブルフ=スティルム、後者がカロリーヌ・ジネの担当だ。
「子どもと魔法」では、ペリーがあの「利口な女狐の物語」(2008年)で見せた絶妙な可愛らしい動物の動きが見られるかと楽しみにしていたのだが、ちょっと期待外れ。前半では「人間よりも大きな家具」を活用し、大きな椅子やティーポットなど、面白い動きを見せたものの、もう少し洒落っ気があっていいだろう。少々類型的な演技にとどまったようである。初日公演ということもあって、動きが硬いのかもしれない。
「スペインの時」は、2003年の「小澤征爾オペラ・プロジェクト」で既に上演されたことがあるプロダクションだそうだが、私はそれを観たか観なかったか、あまり明確な記憶がない。とにかくリアルで賑やかな舞台装置と、コミカルな歌唱と演技が繰り広げられる。ただこれも、まだ少しぎこちないところがあって、2日目以降はもっと楽しめるものになるのではないかと思う。
歌手陣は、極めて安定していた。「子どもと魔法」では活発な「子ども」を歌い演じ、「スペインの時」では色気たっぷりの時計屋の女房コンセプシオンを歌い演じたイザベル・レナードは、この2役を、まるで別の歌手がやっているかのように演じ分けた。驚異的な役者ぶりである。お見事と言うほかはない。
その他の歌手たちについて言えば、「子どもと魔法」では一種の擬人化された役柄が大部分なので、本領はやはり、生々しいキャラが出る「スペインの時」で発揮されただろう。エリオット・マドア(力持ちのロバ曳きラミロ)、ジャン=ポール・フシェクール(時計屋の主人トルケマダ)、デイヴィッド・ポーティロ(詩人気取りの学生ゴンザルヴ)、ポール・ガイ(気障な銀行家ドン・イニーゴ・ゴメス)といった人たちが、それぞれいいキャラを出していた。
彼らのうち何人かは、「子どもと魔法」で大時計や雄猫、ティーポットのお化け、肘掛け椅子なども演じている。またここではイヴォンヌ・ネフが「母親」ほか、アナ・クリスティが「火」や「姫」ほかで出演していた。「子どもと魔法」の「算数の場」で出演したSKF松本児童合唱団も、なかなかの健闘を見せていた。
なおこの日は、先日死去したこのSKOの初期のメンバー、名ヴァイオリニストの潮田益子を偲び、モーツァルトの「ディヴェルティメント ニ長調K.136」の第2楽章が小澤征爾の指揮で、オペラに先立って演奏された。非常に遅いテンポで、情感をこめて演奏されたが、これは追悼演奏のゆえだったか、それとも小澤の音楽の変化か? 聴衆もこの演奏の意味をはっきりと理解し、拍手も控えていた。
☞信濃毎日新聞 9月4日朝刊
天皇・皇后両陛下の臨席のため、セキュリティ・チェックがあり、入場者は空港にあるようなゲートをくぐらされ、手荷物は別ルートを通すというものものしさ。上演後に皇族が退場するまでは客席のドアはすべて閉じられ、一般客も足止めをされる。
いまどき東京ではとっくに廃れたやり方だが、地方ではまだこういう大時代的な風習(?)が残っている。もっとも今回は、小澤征爾が指揮した前半の演目「子どもと魔法」が終ると両陛下は帰られたので、終演後の混乱は起こらずに済んだ。
だが、エントランスやロビー内をはじめ各ドアには黒服の無愛想な男たちが突っ立っており、そのため、かつてのような明るく華やいだ、インティメートな雰囲気がホールから全く消えていたのには落胆させられた。しかも客席は、セキュリティのためか、左右のバルコン席は、上から下まで、すべてがら空きにされていたのである(売れなかったわけではないはずだ)。このため、初日公演にもかかわらず、場内には何となく寒々とした雰囲気が漂っていた。
長年親しまれて来たサイトウ・キネン・フェスティバル(SKF)が、事務局スタッフの全面的な入れ替えなどが影響して、こういう堅苦しい雰囲気に変わったのだとしたら、それは悲しむべき状況であろう。今日のこれが、あくまで特殊なものであったに過ぎないことを願いたいものである。
さて、小澤征爾が、今回は元気で指揮をした! と言っても、2つのオペラのうち、前半の「子どもと魔法」だけだったが、それでもここ数年の彼の体調を考えれば、彼がまた指揮できる状態になったということ自体、うれしいことだ。
サイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)も「息を吹き返した」演奏というべきか、時に現われるテュッティの個所では文字通り馥郁たる音色を響かせたが、こういう音色はこのオーケストラからはここしばらく聴かれなかったものである。
今回、小澤はかなり「間」を採った指揮をしていたので、音楽の流れが少し滞るような印象もなくはなかったけれど、とにかく彼の最も得意とするレパートリーの一つ、フランスものの、しかもラヴェルであるだけに、悪かろうはずはない。
一方、後半の「スペインの時」は、ステファヌ・ドゥネーヴ(シュトゥットガルト放送響首席指揮者、先日来日した)が指揮した。
こちらはコミックな性格のオペラだし、音楽も躍動的なところが多い。ドゥネーヴもそれなりにまとまった指揮を聴かせた。しかし前半の小澤の指揮に比べると、やはり音楽の「色気」の無さは争えず。――あるいはオーケストラが、小澤の指揮の時ほどに燃え立たなかったのかもしれない。
もっとも、SKOも強豪ぞろいの名団体であるからには、指揮者によってそんなに演奏に「差をつける」ようでは困るのだが。
演出はロラン・ペリー。グラインドボーン音楽祭(昨年大野和士が指揮した)との共同制作。舞台美術は前者がバルバラ・デ・リンブルフ=スティルム、後者がカロリーヌ・ジネの担当だ。
「子どもと魔法」では、ペリーがあの「利口な女狐の物語」(2008年)で見せた絶妙な可愛らしい動物の動きが見られるかと楽しみにしていたのだが、ちょっと期待外れ。前半では「人間よりも大きな家具」を活用し、大きな椅子やティーポットなど、面白い動きを見せたものの、もう少し洒落っ気があっていいだろう。少々類型的な演技にとどまったようである。初日公演ということもあって、動きが硬いのかもしれない。
「スペインの時」は、2003年の「小澤征爾オペラ・プロジェクト」で既に上演されたことがあるプロダクションだそうだが、私はそれを観たか観なかったか、あまり明確な記憶がない。とにかくリアルで賑やかな舞台装置と、コミカルな歌唱と演技が繰り広げられる。ただこれも、まだ少しぎこちないところがあって、2日目以降はもっと楽しめるものになるのではないかと思う。
歌手陣は、極めて安定していた。「子どもと魔法」では活発な「子ども」を歌い演じ、「スペインの時」では色気たっぷりの時計屋の女房コンセプシオンを歌い演じたイザベル・レナードは、この2役を、まるで別の歌手がやっているかのように演じ分けた。驚異的な役者ぶりである。お見事と言うほかはない。
その他の歌手たちについて言えば、「子どもと魔法」では一種の擬人化された役柄が大部分なので、本領はやはり、生々しいキャラが出る「スペインの時」で発揮されただろう。エリオット・マドア(力持ちのロバ曳きラミロ)、ジャン=ポール・フシェクール(時計屋の主人トルケマダ)、デイヴィッド・ポーティロ(詩人気取りの学生ゴンザルヴ)、ポール・ガイ(気障な銀行家ドン・イニーゴ・ゴメス)といった人たちが、それぞれいいキャラを出していた。
彼らのうち何人かは、「子どもと魔法」で大時計や雄猫、ティーポットのお化け、肘掛け椅子なども演じている。またここではイヴォンヌ・ネフが「母親」ほか、アナ・クリスティが「火」や「姫」ほかで出演していた。「子どもと魔法」の「算数の場」で出演したSKF松本児童合唱団も、なかなかの健闘を見せていた。
なおこの日は、先日死去したこのSKOの初期のメンバー、名ヴァイオリニストの潮田益子を偲び、モーツァルトの「ディヴェルティメント ニ長調K.136」の第2楽章が小澤征爾の指揮で、オペラに先立って演奏された。非常に遅いテンポで、情感をこめて演奏されたが、これは追悼演奏のゆえだったか、それとも小澤の音楽の変化か? 聴衆もこの演奏の意味をはっきりと理解し、拍手も控えていた。
☞信濃毎日新聞 9月4日朝刊
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いつも鋭いご感想拝見させていただいております。
前半ご指摘の件ですが、必ずしも東京でも廃れていないこともあります。
サントリーホールなどは出入り口が別なのでスマートですが、オペラシティ
でのサイトウキネン・マタイのときは、両陛下退出まで一般客足止めでした。
文化、オーチャードなどは一部制限だったと思います。
ひどかったのは、皇太子隣席のバイエルン・ローエングリンで、警備担当者が
演奏が始まってから足音を立てながら出て行きました。(2幕か3幕か忘れましたが演奏前から幕が上がっている演出でしたので、)始まるのがわからなかったのでしょうが、音楽的には極めて無神経な行為でした。もう少しスマートな方法を考えないと、マイナスなイメージをもたらすと思います。