2024-12

2013・8・17(土)バイロイト音楽祭(3)「ジークフリート」

     バイロイト祝祭劇場  4時

 ブーイングの音量の方が拍手より大きかった例に、初めて出会った。
 第3幕のラストシーンには、流石にみんな呆れたのだろう。

 岩山におけるジークフリートとブリュンヒルデの高らかな愛の2重唱――という場面が、ベルリンのアレクサンダー・プラッツ(という触れ込みだが、ネオンで表示されているのは「AL」の2字が無い「EXANDERPLATZ」という字だけだった)の駅前のスナックになったまでは、まだいい。
 だが、2重唱の後半では、2頭の巨大ワニが背景に出現し交尾したあと、1頭が「森の小鳥」(役の歌手)を呑み込み、他の1頭はジークフリートになついてその手からエサを貰い、・・・・つまりジークフリートは巨大ワニにエサをやりながら2重唱を歌い、後奏になってからは、もう1頭が半分呑み込んだ「森の小鳥」の女性をその口から引っ張り出し、結婚衣装姿になっているブリュンヒルデがそれを見てヤキモチを焼き、――そこで全曲が終る、という具合なのだ。何とも滅茶苦茶な演出である。猛烈なブーイングに混じって、これ見よがしの爆笑も巻き起こった。

 第1幕の最初は、ラシュモア山の米国大統領の顔像ばりに、マルクス、レーニン、スターリン、毛沢東の顔が彫られた岩壁。その前に「ミーメの小屋」なるクルマ――「ラインの黄金」でアルベリヒが財宝を積み込み、ミーメが引き継いだワゴン車がある。
 しかし、この場面と、第2幕のファフナーが住む「恨みの洞穴」が同じ光景というのは納得が行かぬ。

 ただし第2幕では、これが回転舞台で半転すると、前述のEXANDERPLATZの場面になり、金持になったファフナーは、大蛇でなく昔通りの「巨人」即ち人間の姿で、女たちを相手に気前よく暮らしているらしい。

 ジークフリートは、派手な羽根を付けた「森の小鳥」と恋仲になり、「上手く吹けない笛」のくだりは草笛でなく、街のゴミの中から古いボトルなどを引っ張り出して擬音を出そうとし、「角笛」のところでは実際に角笛など吹かず、森の小鳥相手に水溜りの水を跳ねかしあって(汚いですな)戯れる。

 ファフナーとはボクシングで応酬し、旗色が悪くなると突然カラシニコフ銃で乱射し、相手を仕留めてしまう。この銃声は猛烈な大音響なので、客席入口に注意書が張ってあったくらいだ。
 この銃は、第1幕で彼がミーメの車の中から見つけ、「鍛冶の場」の前半で盛んに手入れをしていたものである。そうすると、「いつの間にか出来ていた」剣ノートゥングの方はどこにやったのか? 第3幕では彼はヴォータンの槍を剣でたたき折るのではなく、手でヘシ折るのである。

 その他、第3幕冒頭、ヴォータン(泥酔状態)と、智の女神エルダ(ここでは衣装を買い込んで出て来た水商売の女)とが世界の行末を議論する場面では、あの「ラインの黄金」で活躍した店長役の男が、今度は正装したウェイター役としてひっきりなしに出たり入ったりしている。そのうるさいこと。

 こんなことをいちいちメモしていては、余計腹が立つばかりだから、もう止める。
 だが、世界支配の権力を秘めた「指環」を「石油」に読み替え、その利権争奪の歴史の流れを、4部それぞれにシチュエーションを変え、さまざまな局面から描き出そうという狙い(らしい)の今回の演出テーマは、「ジークフリート」ではどこへ行ったのか?
 ともあれこのカストルフ演出には、「音楽だけじゃつまらないから、とにかくその間何か面白いことをやっていようじゃないか」という魂胆が丸見えである。やらなくてもいいような意味のない演技――演出家にとっては意味があるのだろうが――があまりに多すぎる。だがしかし、仮にそれを除いたとしたら、今回の舞台には何が残るのだろう? その程度の演出なのである。

 余談ながら私は、いつかゲルギエフから聞いた、マリインスキーでの「仮面舞踏会」の話を思い出す。第3幕でレナートがあの素晴しいアリアを歌っているさなか、ずっと1人の男がレナートの靴を磨いている演出があったそうな。ゲルギエフが演出家に、「あの靴磨きは何の意味があるのだ」と尋ねたら、その演出家は「別に意味はありませんが、歌だけでは客が退屈すると思いましたので」と答えた。で、ゲルギエフは腹を立ててその「靴磨」を止めさせた、という話である。

 また、今回の第2幕のファフナー殺害の場におけるカラシニコフ銃の乱射では、何年も前にシュトゥットガルトで観た「ノルマ」を思い出した。あの大詰近く、ノルマが銅鑼を3度打って軍を集めるところでは、何とその銅鑼のリズムが、非常ベルで代用されたのである・・・・。

 もっと音楽を大切にする演出家を起用できないものか?

 対して、今夜もキリル・ペトレンコの指揮の素晴しさは、特筆に価する。
 第1幕の静かな序奏の個所からして、瑞々しい表情と緊迫感があふれていた。この個所の音楽が、これだけ明確な主張を感じさせて響いた例は、私の体験では、決して多くはない。
 ワーグナーのオーケストレーションが成熟の度を加えて行った第2幕中盤以降では、バイロイト祝祭管がますます美しく響く。第2幕の幕切れの個所も、第3幕冒頭のヴォータンとエルダの場も、オーケストラは実に雄弁に、しかも決して野放図な咆哮にならず、引き締まって均衡豊かに轟々と流れて行く。「ブリュンヒルデの目覚めの場」は、いかにもペトレンコらしく、ある程度抑制された響きに留まっていたが、それでもオーケストラの量感は見事だった。
 それゆえ、第3幕の大詰もきっと素晴しかったはずなのだが、――例の「ワニ騒動」で、ついにこちらも音楽から気を逸らされてしまったのが残念である。

 ただ、今日のオケ、唯一いけなかったのが、聞かせどころたる角笛のホルン。これほど超不調だったのも珍しい。水溜りの水をピチャピチャ跳ねかすという演技に合わせてわざとコケたわけでもあるまいが、ちょっと気の毒であった。

 歌手陣。ブルクハルト・ウルリヒ(ミーメ)、ヴォルフガング・コッホ(さすらい人ヴォータン)、マルティン・ヴィンクラー(アルベリヒ)、ゾリン・コリバン(ファフナー)、ナディーネ・ヴァイスマン(エルダ)、キャスリーン・フォスター(ブリュンヒルデ)ら、前2作の中で登場した歌手たちは、いずれも手堅く安定した歌唱。
 この作品から登場したランス・ライアン(ジークフリート)も、少しやくざっぽい演技と強靭な歌唱とで存在感充分だし、ミレッラ・ハーゲン(森の小鳥)はちょっと力不足かな、と思われたものの、まずまずの出来だった。
 したがって、音楽面ではとりわけ不満を感じさせない水準の演奏だった。ただ、ライアンに対しては、しつこいブーイングを飛ばすヤツがいた。何か含むところがあったのか? 

 なお、例の黙役の助演者――今回は第1幕でクマ(ただし人間の姿)の役で出ずっぱり、本を片付けたり、ジークフリートの鍛冶に合わせて首を振ったり、また第3幕ではウェイターの役でのべつワインなどを給仕したり、その存在は実にうるさく目障りだったが、しかし実に巧く見事な、細かい演技を披露して映えていたのは事実だ。
 この人、今日になって判ったのだが、パトリック・ザイベルトというウィーンの演出助手だった。もちろん俳優だろう。敢闘賞ものである。

 21時55分終演。あちこちで「こんな酷いの、初めて」という声が渦巻いていた。もちろん、「面白い」という人も、ブラヴォーを叫んでいた女性(1人)もいたから、世の中さまざまだが、私などは、もうこれでバイロイトに来るのは最後にしようか、と本気で思い始めたくらいである。

「ジークフリート」第1幕
   「ジークフリート」第1幕

コメント

コメント

同じ日に観た者です。(先日、ワルキューレにコメントしました。)

このカストルフリングですが、あちこちで、(世界支配の権力を秘めた)「指環」を「石油」に読み替え、とか「指輪」を「石油に」見立てた、とか聞きます。

私は当初より、これは実際の演出とは全くそぐわないのでとても不思議に感じていました。

そもそも指輪は現実に出てきますし、アルベリッヒは別に油田から黄金を盗んだわけではありませんでしたし、フライアは石油ではなく黄金と比べられていましたし、ファーフナ―は別に石油利権を争ってファーゾルトを殺したわけではありませんし、石油利権を守ってどこかで籠っていたとかでもありませんでした。(石油利権で巨万の富を稼いでいたのはヴォータンでした。)

どうしてこれが、指輪を石油に見立てたことになるのでしょう??
一見してそれはないと当初から思ってました。

そこで、この「指輪を石油に見立てる」という言葉ですが、
私は比較的最近になって知りましたが、
カストルフがインタヴューに答えて彼自身の口から出た言葉だとのことですね。

彼は正気ではなかったのか?? と思うところかもしれませんが、
私はこの事実を知ったとき、むしろ非常に合点が行きました。
彼は正気だという前提のもとで、ですが。もちろん。

《指輪》の演出を語っている時に「指輪」という単語を聞けば、
それは普通、「小道具」の指輪を指していると誰しも受け取ります。
ここが間違いのもとでした。
これは「小道具の」指輪を指していたのではなくて、
《指輪》という作品を指している言葉だったのです。
(証明はできませんが。)

つまり、《指輪》という作品、この物語を「石油(利権)」の物語りに
見立てて演出した、と彼はインタヴューで答えていたのだと思いました。
(また後日)

そう思ったとき、(割と最近のことでしたが)、
私の解釈ですべてが淀みなく整合性良くつながりました。

以上、ご参考にしていただければ幸甚です。

また後日。

コメント(続き)

同じ日に観た者です。 
昨日コメントした続きです。

第一幕の熊のような人ですが、
私はあれは熊役には思えませんでした。
本だって読むわけですし、
ジークフリートがノートゥンク鍛えるのだって手伝うわけですから。
彼はきっと、ミーメ一家に仕えている人だと私は受け取りました。
ただ、それがこの作品の骨子に関わる何かを表現してるようには
感じませんでしたが、何かは言いたかったのでしょう。
退屈だから入れたわけではないと思いました。

第一幕でショッキングだったのは独裁者たち4人の彫像でしたね。

でも、その4人の中には最も代表的な独裁者として知られるヒトラーは
いなかったことから、あくまで「共産圏の」独裁者を指しているんだと思いました。
また、東洋人の毛沢東もいることからは、あれは決して東独とか局所的な何か、ましてや東ベルリンとか極めてローカルな事柄ではない何かを物語るものだと解しました。

ゴミのように乱雑に置かれた本を粗末に扱うミーメ家の人たちからは、仮にあれらの本があの独裁者たちの著書であるなら、ミーメ家の人たちは決して共産主義讃美者ではないのだと表現してるのだと解しました。 同時にカストルフも共産主義を讃美する意図はない、と。

さて、問題はあれら彫像が共産主義の対極にあると一見思われる民主主義を謳う米国のラシュモア山の米国大統領の顔像を模している点でした。
これはいったいどういう意味でしょう??

一見相容れない対極にあるかに思われるものを一種、統合でもしたような何かがそこにあるとでも言うのでしょうか??

私がその時感じたことは、カストルフの声で「あなたたち資本主義社会の人たちは、自分たちが民主主義の世の中に生きているかの如く錯覚しているけど、実際は自覚が全くないだけで、あなた達が生きている社会「も」、彼ら共産主義の独裁主義の中で生きてるのと実質的に何ら変わりはないんだよ。いいかげん目を覚ましなさい!!」という一種の警告でした。

この彫像が強く印象に残るのは一般にはジークフリート第一幕だと思いますので、とかくミーメ一家とリンクされがちですが、この全く同じ彫像が第3幕でも現れるのは知っての通りです。

私は1幕よりも3幕の方により大きな意味があったと感じました。

それは後日追ってまた。

以上、ご参考にしていただけましたら幸甚です。



コメント(続きの続き)

同じ日に観た者です。 
昨日コメントした続きです。

さて、第一幕でショッキングだった共産圏の独裁者たちのラシュモア山の米国大統領を模してる彫像ですが、同じものが第3幕でも現れていました。

でも、それらには大きな相違がありました。 それはその一つの目がヴォータンのあとを追う、という点です。

第一幕では、どれかの目が誰かを見たり追ったりするようなことは皆無でした。 それがこの第3幕ではヴォータンを見るだけでなく、ヴォータンの行くあとを追うのです。 これはどういう意味なのでしょうか?? 何か意味があると考えるのが自然でしょう。

監視でもしているのでしょうか?? 
でも、誰が何の目的で??

これといった意味は思い当たりませんでしたが、
何かヴォータンだけは他の登場人物とは異質なんだよ、という意図があるように思えました。

まあ、控えめに見ても、ヴォータンだけはあの彫像と深く関与しているとか、密接なつながりがある、という意味ではなかろか、と。

あの目は誰の目でしたっけ?? スターリンでしたっけ??

ここで数日前にワルキューレにコメントした事と関わってきます。
プログラムにはこの人物の名前まで具体的に出ていたのではなかったんでしたっけ??!!

これはまさに、ヴォータンの実態、本質は共産主義の独裁者スターリンやロスチャイルドのようなもので、多くの人々を苦しめて、それと引き換えに巨万の富を築いた権力者、支配者なんだよ!!!、と非常に強く言っているわけでしょう。

これを鮮明に打ち出した演出だったわけでしょう、カストルフは。

以上、ご参考にしていただけましたら幸甚です。

追ってまた、後日。

コメント(続きの続きの続き)

同じ日に観た者です。 
昨日コメントした続きです。

第3幕のワニ、
私もあれが出てきたときは、カストルフよ、よくもまあ、とんでもないことをやってくれたよなあ、これはもう、みんなから非難浴びるだけだよ、まったく、と思いました。

最後の大ブーイングは当然と言えば当然でしかないと思いました。

で、私はこれだけは、全体にいったいどうかかわってくるのかわかりませんでした。 いえ、これだけ、とも言えませんが。

でも、このワニが年を追うたびに、増えたり、違う場面でも出てきている、ということを耳にして、思いました。
聴衆がカストルフの望み通りの反応をしているから、そうしたことを続けているのだ、と。

私が思うに、このワニは、カストルフの「悪ふざけ」だと思います。

本来ですと(??)、《ラインの黄金》が全体の中では、交響曲でいう「スケルツォ」にあたる作品だと思いますが、
このワニのおかげで、《指輪》の「スケルツォ」は《ジークフリート》第3幕になってしまいました。 おかげで《ラインの黄金》はより目立たない「メヌエット」に変質してしまいました。

あのワニはそのためにあったのだ、と。
これについては、この演出の本質からは少々外れるかもしれませんが、また後日追って。《ラインの黄金》のコメントで。


以上、ご参考にしていただけましたら幸甚です。

追ってまた、後日。

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