2013・8・15(木)バイロイト音楽祭(2)「ヴァルキューレ」
バイロイト祝祭劇場 4時
フランク・カストルフ演出は、この「ヴァルキューレ」では、舞台をアゼルバイジャンのバクー油田に移す、という触れ込みである。
第1幕のフンディングの家は石油発掘の小屋と農家とを併せたような構造で、結局第3幕までこの建物を回転舞台で回し、いろいろな場面をつくる、という設定だ。
第1幕、ジークムント(ヨハン・ボータ)が逃げ込んで来て、ジークリンデ(アニア・カンペ)と出会い、そこへ彼女の夫のフンディング(フランツ・ヨーゼフ・ゼーリヒ)が帰宅して来るあたりまでは、例の「映像」が使われていない。
ありがたや、カストルフも同一の手法を繰り返すの愚を避けたか、と安堵していたら、間もなくまた白布が下りて来て、スクリーン映写が始まった――。
しかも今度は、ジークムントが舞台上で「父は俺に一振りの剣を約束した」と歌う個所では、寝室に退いたフンディングとジークリンデの行動が延々と写される。
またジークリンデが「一族の男たちが」を歌い、ジークムントが「冬の嵐は過ぎ去りて」と歌うくだりなどでは、寝苦しさにのたうつフンディングの顔が、アップで慌しく写し続けられる。
見まいと思っても、視覚に入って来る。
舞台上の演技と、煩雑な映像とが同時に視覚に入って来るから、気を散らされること夥しい。
そして、愛の二重唱が高まって行く第1幕のクライマックスでは、ついに「石油」関係の「映画」が、目まぐるしく映写されはじめたのだった。
――鳴呼、ワーグナーの作品の中でも最も美しい音楽が演奏されているこれらの個所で、何を好んで観客の感覚をわざわざ音楽から逸らすか?
この演出家は、おそらく「歌だけ聞かせてるんじゃつまらないから、もっといろんなことをやって面白さを狙ってみよう」と考えているのであり、音楽への敬意などまるで持ち合わせていない人なのだろう。
第2幕では、ヴォータン(ヴォルフガング・コッホ)の長いモノローグの間では意外にも映像はほとんど現われない。その間だけは、私はヴォータンの苦悩と音楽とに集中することが出来る。
だがラストシーンでの、登場人物が入り乱れて戦い、ジークムントらが斃れる模様はすべて建物の内側で演技され、それが慌しく変化するアップの映像でスクリーン上に投影される。一部は効果的なところもあるが、ナマの演技で観ても同じようなものであり、このあたりは単なる趣向程度に留まるだろう。
第3幕でも相変わらず舞台上の演技と並行させての映像が多く出て来るが、このあたりになると、石油発掘や、バクー油田の悲惨な労働者の映像やらがますます多くなって来て、煩わしさはいよいよ増して来る。
そもそもこの石油(OIL)問題は、今回の「指環」のテーマらしいが、そのアイディアはいいとしても、それをこの音楽に結びつけるには、手法があまりに皮相的すぎはしないか?
ヴォータンが長いモノローグを歌っているさなか、ブリュンヒルデ(キャスリーン・フォスター)がろくろくそれを聴きもせず、ニトログリセリン(それにしては手荒な方法だったから、違う薬品か?)を瓶詰めしていたり、そのニトログリセリンを使って油田坑を爆破するシーンが――但し音楽と全く関係のない個所で――映画で投影されたり、といった場面はあるものの、だから何だというのか?
ニトログリセリンよりも扱いの容易いダイナマイトを発明したノーベルの一族が、一方でバクー油田の利権をロスチャイルドと競争しつつ利用し、巨大な富を築いていたことや、それが若き革命家スターリンの扇動する闘争を誘発させ、やがてソ連共産主義の、あるいはアメリカ資本主義の繁栄のもととなって行った――とかいう歴史的事実を、今回の「指環」の背景としていること自体は、たいへん結構なアイディアだとは思う。
だが、それならそれで、もっと緻密で巧みな関連性を持たせた演出が工夫されるべきではなかったか。要するに準備不足、煮詰め不足の舞台なのだ。
この雑然たる舞台を救ったのが、昨夜同様、キリル・ペトレンコ指揮のバイロイト祝祭管弦楽団であったことは言うまでもない。
第1幕冒頭の嵐の音楽の個所では、響きは非常に乾いたものだったが、幕が開いた後からは、弦のしっとりした音色とともに、ワーグナーの叙情的な音楽があふれ出た。「ワルキューレの騎行」などの部分を含め、金管楽器群はおとなしすぎるほど控えめに鳴っているが、弦の美しさは最高である。それは少しも感傷的にも情緒的でもなく、引き締まって無駄のない壮大さを持った演奏であった。
この演奏ゆえに、どれだけ「救済された」かは、筆舌に尽くしがたい。
前記のほかにフリッカ(クラウディア・マーンケ)を含む主役歌手陣も、悪くない。特にジークリンデのアニア・カンペは出色の出来であった。ヴァルキューレたちも――ヘルムヴィーゲ役の歌手だけが冒頭非常に苦しいものがあったが――概して手堅い歌唱だった。
舞台前方にある大きな石油貯蔵缶(だったか何だったか?)から炎々と燃え上がる火に目が眩み、スクリーンに映っているブリュンヒルデの顔もあまりよく見えぬままに幕が閉まって行き、かくて9時45分に終演となった。
昨夜はブーイングが少しあったが、今夜は全くなく、歌手と指揮者に対しての熱烈な拍手とブラヴォーだけが続いた。演出家はどうせ出て来ないから、みんな割り切ったか、それとも疲れたか。
「ヴァルキューレ」第1幕
フランク・カストルフ演出は、この「ヴァルキューレ」では、舞台をアゼルバイジャンのバクー油田に移す、という触れ込みである。
第1幕のフンディングの家は石油発掘の小屋と農家とを併せたような構造で、結局第3幕までこの建物を回転舞台で回し、いろいろな場面をつくる、という設定だ。
第1幕、ジークムント(ヨハン・ボータ)が逃げ込んで来て、ジークリンデ(アニア・カンペ)と出会い、そこへ彼女の夫のフンディング(フランツ・ヨーゼフ・ゼーリヒ)が帰宅して来るあたりまでは、例の「映像」が使われていない。
ありがたや、カストルフも同一の手法を繰り返すの愚を避けたか、と安堵していたら、間もなくまた白布が下りて来て、スクリーン映写が始まった――。
しかも今度は、ジークムントが舞台上で「父は俺に一振りの剣を約束した」と歌う個所では、寝室に退いたフンディングとジークリンデの行動が延々と写される。
またジークリンデが「一族の男たちが」を歌い、ジークムントが「冬の嵐は過ぎ去りて」と歌うくだりなどでは、寝苦しさにのたうつフンディングの顔が、アップで慌しく写し続けられる。
見まいと思っても、視覚に入って来る。
舞台上の演技と、煩雑な映像とが同時に視覚に入って来るから、気を散らされること夥しい。
そして、愛の二重唱が高まって行く第1幕のクライマックスでは、ついに「石油」関係の「映画」が、目まぐるしく映写されはじめたのだった。
――鳴呼、ワーグナーの作品の中でも最も美しい音楽が演奏されているこれらの個所で、何を好んで観客の感覚をわざわざ音楽から逸らすか?
この演出家は、おそらく「歌だけ聞かせてるんじゃつまらないから、もっといろんなことをやって面白さを狙ってみよう」と考えているのであり、音楽への敬意などまるで持ち合わせていない人なのだろう。
第2幕では、ヴォータン(ヴォルフガング・コッホ)の長いモノローグの間では意外にも映像はほとんど現われない。その間だけは、私はヴォータンの苦悩と音楽とに集中することが出来る。
だがラストシーンでの、登場人物が入り乱れて戦い、ジークムントらが斃れる模様はすべて建物の内側で演技され、それが慌しく変化するアップの映像でスクリーン上に投影される。一部は効果的なところもあるが、ナマの演技で観ても同じようなものであり、このあたりは単なる趣向程度に留まるだろう。
第3幕でも相変わらず舞台上の演技と並行させての映像が多く出て来るが、このあたりになると、石油発掘や、バクー油田の悲惨な労働者の映像やらがますます多くなって来て、煩わしさはいよいよ増して来る。
そもそもこの石油(OIL)問題は、今回の「指環」のテーマらしいが、そのアイディアはいいとしても、それをこの音楽に結びつけるには、手法があまりに皮相的すぎはしないか?
ヴォータンが長いモノローグを歌っているさなか、ブリュンヒルデ(キャスリーン・フォスター)がろくろくそれを聴きもせず、ニトログリセリン(それにしては手荒な方法だったから、違う薬品か?)を瓶詰めしていたり、そのニトログリセリンを使って油田坑を爆破するシーンが――但し音楽と全く関係のない個所で――映画で投影されたり、といった場面はあるものの、だから何だというのか?
ニトログリセリンよりも扱いの容易いダイナマイトを発明したノーベルの一族が、一方でバクー油田の利権をロスチャイルドと競争しつつ利用し、巨大な富を築いていたことや、それが若き革命家スターリンの扇動する闘争を誘発させ、やがてソ連共産主義の、あるいはアメリカ資本主義の繁栄のもととなって行った――とかいう歴史的事実を、今回の「指環」の背景としていること自体は、たいへん結構なアイディアだとは思う。
だが、それならそれで、もっと緻密で巧みな関連性を持たせた演出が工夫されるべきではなかったか。要するに準備不足、煮詰め不足の舞台なのだ。
この雑然たる舞台を救ったのが、昨夜同様、キリル・ペトレンコ指揮のバイロイト祝祭管弦楽団であったことは言うまでもない。
第1幕冒頭の嵐の音楽の個所では、響きは非常に乾いたものだったが、幕が開いた後からは、弦のしっとりした音色とともに、ワーグナーの叙情的な音楽があふれ出た。「ワルキューレの騎行」などの部分を含め、金管楽器群はおとなしすぎるほど控えめに鳴っているが、弦の美しさは最高である。それは少しも感傷的にも情緒的でもなく、引き締まって無駄のない壮大さを持った演奏であった。
この演奏ゆえに、どれだけ「救済された」かは、筆舌に尽くしがたい。
前記のほかにフリッカ(クラウディア・マーンケ)を含む主役歌手陣も、悪くない。特にジークリンデのアニア・カンペは出色の出来であった。ヴァルキューレたちも――ヘルムヴィーゲ役の歌手だけが冒頭非常に苦しいものがあったが――概して手堅い歌唱だった。
舞台前方にある大きな石油貯蔵缶(だったか何だったか?)から炎々と燃え上がる火に目が眩み、スクリーンに映っているブリュンヒルデの顔もあまりよく見えぬままに幕が閉まって行き、かくて9時45分に終演となった。
昨夜はブーイングが少しあったが、今夜は全くなく、歌手と指揮者に対しての熱烈な拍手とブラヴォーだけが続いた。演出家はどうせ出て来ないから、みんな割り切ったか、それとも疲れたか。
「ヴァルキューレ」第1幕
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カストルフリング、私は少々(いや、大きく??)異なる印象を受けてますので、
ここにコメントする旨、ご了承いただければ、と思います。
追って後日、他の3つの公演にもコメントさせていただきます。
私も、私の解釈に置いて、このバクー油田のことが
最後の最後まで謎でした。
それ以外、と申しますか、特に《ラインの黄金》に関しては、
当初から私の見解は一つでした。それはまた追って後日。
バクー油田のこの話、プログラムに書かれていた、ということですね。
私はプログロムは見てなかったので、バクー油田の話はほんと、
わけがわかりませんでした。
私の《ラインの黄金》の解釈とも(当初は)繋がるようには思えませんでしたし。
ですが、プログラムに出ていたからには、絶対避けて通るわけには行かない
何か大きな意味が確実にあると考えるのが筋だと思いました。
ですが、いくら考えても分かりませんでした。
それがふと、あ、これか、と私の解釈の中で閃いたのは2015年の春のことでした。
これは別に《指環》の「背景」としているわけではないと思います。
これはヴォータンを表現するための題材だったのだとその時感じました。
つまり、悲惨な労働者を大量に生み出すことと引き換えに、
巨大な富を築いていた人物、ということです。
そうした支配者だとカストルフはヴォータンを表現していたということです。
そもそも《指輪》では、神々は神聖な存在、信仰の対象として描かれているわけではありません。
《ラインの黄金》ではカストルフは、チンピラやくざの小規模事業主って感じでヴォータンを描いていました。 それがワルキューレでは、一気に成り上がって、世界規模のマフィアになってるんだ、ということを描きたかったんだと思いました。
《ラインの黄金》でスクリーンは決して意味のないものを映し出していたわけではなくて、客席からは見えないけど、奥で行われていること等を映し出していました。
あのスクリーンはそういう意味だったんだと思いました。
ワルキューレではスクリーンでヴォータンの奥に入り込んで行って、
莫大な富を築き上げるマフィア、それと引き換えに多くの労働者を悲惨な目に遭わす人物像、それが隠れたヴォータンの実態なんだと描いていたのだと思いました。
そう考えると、他の箇所の私の解釈とも非常に整合性の良いものになりました。
それは追ってまた後日。
以上、ご参考にしていただければ幸いです。