2024-12

2013・8・14(水)バイロイト音楽祭(1)「ラインの黄金」

   バイロイト祝祭劇場  6時

 大ワーグナー生誕200年記念の「ニーベルングの指環」の第2ツィクルスが幕を開けた。
 カタリーナ&エーファ・ワーグナーが総監督の時代だから、どうせ「とんでもない」プロダクションになるのだろうと覚悟はしていたが、予想通り今回のフランク・カストルフ演出、まさに騒々しい猥雑な舞台である。

 それも、これまで観たこともないような独創的な舞台、独創的な解釈――というのならともかく、どの部分もどこかの歌劇場で、だれかの演出で先取りされていたような手法ばかりだ。要するに「後追い」なのである。
 かつてはヴィーラント・ワーグナーが、あるいはパトリス・シェローが、前例のない個性的な解釈の手法による「指環」を制作、世界のオペラ演出に計り知れぬ影響を与えた「バイロイト祝祭」だったが、近年は他の歌劇場の物真似に堕する傾向を強めているのは周知の通りだ。このカストルフ演出の「指環」も、まさにそういった例の一つであろう。

 バイロイトに来て、これほど白けた気持で「指環」の舞台を観たのは、私は初めてである。こういうシロモノを正装して祝祭劇場で観る善男善女の姿が、むしろ滑稽にさえ感じられて来る。Tシャツとジーパン姿で眺める方が、よほどしっくり来るだろう。

 前奏曲が始まり、ホルンが入って来るあたりで幕が開くが、場面はもちろん(?)ラインの川底どころではなく、アメリカは「ルート66」沿いにある「ゴールデン・モーテル」なる場所だ。
 ラインの乙女ならぬ3人の娼婦(ミレッラ・ハーゲン他)が下着を干しながらけたたましく騒ぎ、泊り客の1人アルベリヒ(マルティン・ヴィンクラー)が、水泳パンツ1枚になって女たちを追い回し、プールの中にあったらしい「黄金」を奪って去る――というのが冒頭場面だから、あとは推して知るべし、である。

 同じ建物の一角にあるヴォータンたちの住居が、回転舞台により正面に現われると、ヴォータン(ヴォルフガング・コッホ)は、フリッカ(クラウディア・マーンケ)とフライア(エリザベト・ストリッド)を両側に寝かせ、妻妾同衾の真っ最中。

 そういう細かな描写は、テレビカメラで捉えられ、舞台上方にある巨大なスクリーンに逐一映し出されるのだが、これは人物の表情のアップだけでなく、ストーリーに直接関係しない別室での出来事など事細かに同時に映像中継されるので、目まぐるしく、煩わしいことこの上なしである。それに加え、カメラを抱えて舞台上を動き回るテレビ・クルーたちの目障りなこと! 
 上演2時間半のうち、95%は常に映像が目まぐるしく動いているのだから、登場人物のナマの動きと映像とが、否応なしに同時に目に入って来るわけである。それゆえ観ている方も疲れるし、むしろ手法が単調に感じられてしまう。

 ただ、この映像使用には、便利なところもあり、――たとえばアルベリヒが大蛇(普通のニシキヘビだが)や蛙などに化ける場面では、すこぶる効果的なものになっているのは確かだ。またアルベリヒが指環に呪いをかける個所でも、ドラマの伏線を映像で語らせる方法が効果を上げていた。

 なお、建物の反対側にはバーのような店や、ガソリン・スタンドもある。このバーの「店長」は黙役だが、第1場を除きほとんど出ずっぱりで、もちろん映像にも頻繁に登場し、暴力的なファーフナー(ゾリン・コリバン)やファゾルト(ギュンター・グロイスベック)らにはのべつ殴られたり水をぶっ掛けられたり、ヴォータンにも小突かれたり、ふくれ面をしながら店やモーテルの掃除を続けたり、ラストシーンでは店の客と一緒に「神々のヴァルハル入城」の音楽に合わせて踊ったりと、ご苦労な役回りで、見事な名演技の助演ぶりであった。
 その彼と、ピーター・ユスティノフばりの風貌をしたローゲ(ノルベルト・エルンスト)と、井上道義ばりの愛嬌ある渋面が魅力を発揮するアルベリヒの3人が、今夜の舞台では一番映えたと言えようか。

 なおその他の配役は、西部のガンマンの扮装で見得を切る神ドンナーをオレクサンドル・プシュニアク、頼りない神フローをローター・オディニウス、既にヴォータンの情婦らしき水商売風の女といった「智の女神」エルダをナディーネ・ヴァイスマン、巨人たちより大きな体格の小人ミーメをブルクハルト・ウルリヒ。
 みんな、ト書きでは出番のない場面でも、カメラにより逐一写されていることがあるから、全くご苦労様である。――まあ、概してあまり有名どころではないけれども手堅い布陣で、演技も歌唱も達者であった。

 ちなみに、今回の「指環」では「石油の発掘権」がテーマとなっているという触れ込みだが、少なくともこの「ラインの黄金」においては、それが具体的に提示されるところまでは行っていなかった。

 いずれにせよ、こういう騒々しい舞台だから、観客が音楽から注意を逸らされてしまうことは必定であろう。私も必死に音楽に集中するよう努力していた。
 そんな努力をしなければならないこと自体、非常に疲れる。ワーグナーの音楽が好きでたまらぬ人間が、高いカネを使って「ワーグナーの聖地」まで行って、猥雑な視覚効果の間を縫って必死に音楽を聴こうと努力するとは、何たる皮肉なお笑い種だろう?

 しかし、それでも、耳に入って来たオーケストラの演奏は、実に素晴しかった。精鋭指揮者キリル・ペトレンコ、見事なバイロイト・デビューである! ここのオーケストラがこれほど均斉を保って鳴り響いた例は、決して多くはないだろう。ティーレマンのような豊麗な音づくりではなく、むしろ音量を抑制した、凝縮した響きを求めた指揮だが、緊迫感と美しさは充分だ。
 その一方、「ニーベルハイムへの下降」の個所とか、大詰近くの「ノートゥングの動機」を支える弦のトレモロの個所などでの地を揺るがせるような最強奏の轟音も、バイロイト祝祭管の底力を遺憾なく発揮した物凄いものであった。「ヴァルハル入城」での豪壮雄大さも、舞台上の安っぽい動きを補って余りあるものがあった。
 このペトレンコの指揮が、今回の「指環」における唯一の「救済の動機」であると言えようか。

 8時半終演。

「ラインの黄金」第2場
   「ラインの黄金」(右上部が問題のスクリーン映像)

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コメント

同じ日に観た者です。
ここ数日間、残り3つにもコメントしていました。
ところで、先日、ジークフリートにつけたコメントに訂正を加えましたが、
それ以降、見えなくなってしまいました。


さて、ラインの黄金ですが、
この作品からカストルフの主張は実に明確だったと私は思います。
今になって思えば、全4作通して首尾一貫して主張が貫かれていて、
実に驚くほど整合性のとれた傑出した演出だったように私には思えます。
ですが、当初、ワルキューレ以降がどうにも繋がらなくて、泥沼に入ってしまいました。

そのワルキューレ以降はこれまでのコメントで触れてきた通りですが、
さて、ラインの黄金ですが、当初、一体全体何をやっているのか皆目わかりませんでした。
とりたてて観るところのない演出で実につまらないと思ったものです。

人によってはもしかしたら、カメラワークに感心した方もいるかもしれませんが、
私はそれに惹きつけられることもなく退屈な時間を過ごしました。あの場面までは。

さあ、それはどの場面だったかハッキリ覚えてますが、
私は一瞬、舞台で何が起きたのか、捉えることができませんでした。
それほどその場面は私には鮮烈でした。
ただ、周囲の客席をキョロキョロと見渡しても誰も驚いている気配もないので、
尚更びっくり仰天した記憶があります。

その二重の意味で驚いていたのはもしかすると世界でも私一人だけだったのかもしれません。

その場面とは・・・、追ってまた後日。


以上、ご参考にしていただけましたら幸甚です。


コメント(続き)

同じ日に観た者です。

さて、一体全体何が起きてるのだろうとびっくり仰天してしまった場面とは、
ニーベルハイムに場面が転換したその最初の場面でした。

そこで、ミーメが自由を奪われているのは良いとして、
問題はアルベリッヒです。

アルベリッヒもミーメ同様に、電柱か何かに後ろ手で縛られて
自由を奪われているではありまさえんか!!!!!!!

えっ?? アルベリッヒって既に指輪を作っていたんじゃなかったの???
どうして指輪持ってるはずのアルベリッヒまでもが自由を奪われているの???

いったい何が起きたっていうんだろう???
ということは既にカエルに化けるまでもないってことか・・・???

何かきっとそこで謎が解けるのだろうか???

一方、ローゲとヴォータンは台本より早く、始めからその場面に登場しています。
そして彼ら二人は自由の身で、見た感じミーメとアルベリッヒを従わせているといった感じ。

あきらかにト書きとは全く異なる舞台に、もしかするといよいよこれから何かが始まるのだろうか、とか、今起きている舞台の進行にはいったいどういう意味があるのだろうか、と、その時初めて考え出すことになった次第でした。

追ってまた後日。

コメント(続きの続き)

同じ日に観た者です。

そういう次第で、ヴォータンがミーメもアルベリッヒも初めから支配していたわけですが、もしかするとアルベリッヒは既に指輪を持っていないのか??
カエルに化けることもないのだろうか? と
舞台の展開に注目していました。

ですが、大蛇への変身もちゃんとありましたし、
カエルへの変身も「ト書き通り」あったではありませんか??
それらは舞台のスクリーンを使って映し出されていました。
スクリーンは客席からは見えないこと(もの)を映し出すのに使われていました。
(少なくても隠れ兜は所持していたわけです。)

でも、はじめっからアルベリッヒやミーメを支配していたのに、何故、わざわざカエルに変身させる必要があったのでしょうかね??
これは大きな疑問となって私には残りました。

捕らえられたアルベリッヒは縛り上げられるわけでもなく、場所を移されます。
(なぜワーグナーはこの時点で指輪を奪うことにしなかったのでしょうね??
普通、そのチャンスができた時をわざわざ遅らせる理由はないように思いますが。)

以上、ご参考にしていただけましたら幸甚です。

追ってまた後日。

コメント(何度目かの続き)

同じ日に観た者です。

続きです。

場所を移されたアルベリッヒはヴォータンの長い話の後、
ヴォータンの前に出向いて行って、指輪を「差出し」ます。
決してヴォータンが無理やり指輪を抜き取ったわけではありません。
怒りの感情はあらわにはして悔しがるものの、何故か
「ヴォータンに一礼」をして去って行くのです。

ちょっと整理しておきます。

・ヴォータンははじめからアルベリッヒやミーメを支配していた。
・アルベリッヒはそれでもカエルに化けて捕らわれの身となる。
・その時点では指輪は移動せず、場所を移動させられる。(台本通り)
・その間、縛り上げられているわけではない。
・ヴォータンが指輪を奪うのではなく、アルベリッヒが「差し出す」。
・アルベリッヒはヴォータンに礼儀正しい。

私は宿に帰って、いったいどういう意味なのか考えました。
少なくても常識的に知っているこの物語の解釈であるはずではないのはあきらかでした。

以上、ご参考にしていただけましたら幸甚です。

追ってまた後日。

コメント(何度目かの続き)

同じ日に観た者です。

何度目かの続きです。

さて、そういう次第で、アルベリッヒははたしてあの場面で、確かに指輪を持っていたはずだったことになります。
でも、あの場面の最初から、アルベリッヒはヴォータンに従っていたわけです、後ろ手に電柱みたいなところに縛られてまで。
指輪は世界を支配するほどの力を持っているのではなかったのでしょうか???

この現象は一見しておかしいのがわかります。
というか、はっきりと示していることは、指輪にはそもそも世界を支配する力どころか、何の力だってないんだよ!って言ってるようなものだったのです。

アルベリッヒはガソリンスタンドの店長風でした。 ですが、その上にはヴォータンがいて、社会的にはアルベリッヒはヴォータンの支配下にあって、何でも従わざるを得ない立場、ということなのでしょう。

ミーメとか、店員は店長のアルベリッヒに従っているかもしれませんが、それは店長だから、当たり前ではあるでしょう。 指輪を振りかざしてニーベルング族を従わせる、といったワーグナーの台本は単に、「自分の勢力の範囲内で単に強権を発動したに過ぎない」という「指輪(の力)とは全然関係ない」ということの表現、主張だったことが、私には窺われました。

この点が、まず第一に注目せざるを得なかったカストルフ演出の醍醐味でした。


さあ、「指輪には力なんてない!」、このこの作品の常識を根元から覆すカストルフの演出はどういう展開を見せるのか、これが注目の的になりました。
それとも、この私の見解は何か大きな錯覚があって、その後、間違った見解だったと分かるようになるのでしょうか? 
何はともあれ突然、カストルフ演出には目がまったく離せなくなった次第でした。

すぐに大きな疑問がわいてきました。

指輪に力がないとして、では、ヴォータンはどういうつもりでいたか、ということでした。

では追ってまた後日。

以上、ご参考にしていただけましたら幸甚です。

コメント(何度目かの続き)

同じ日に観た者です。

何度目かの続きです。

さて、そういう次第で、指輪には何の力もないんだよ、とカストルフは言っているように私には見受けられた次第でした。

そうだとするならば、ヴォータンははたしてどういうつもりでいたのでしょうか?

私は当初、それはワルキューレで何か示されるのではないだろうか、と期待していました。 特に第二幕のブリュンヒルデとの対話に何か判明するのではないか、と。

ですが、私の期待に反して、次の日、《ワルキューレ》を見ても何も私にはわかりませんでした。

実はこの《ラインの黄金》のそれまでの場面に、ある非常に大きなヒントがあったわけなのですが、私はそれを見逃していたのです。

それに気が付いたのはもう何か月も経った後でした。

それは、(アルベリッヒが黄金を奪った後)、ラインの乙女がヴォータンに電話をかけていた、ということです。

これに気が付いていれば私は当初からヴォータンが思っていたことで、あれこれ迷う必要はありませんでした。



それはまた追ってまた後日。

以上、ご参考にしていただけましたら幸甚です。

コメント( 何度目かの続き)

同じ日に観た者です。

何度目かの続きです。

ラインの乙女は一体全体、なぜヴォータンに電話していたのでしょう??
することないから暇つぶしででもしていたのでしょうか??
その可能性はゼロではないかもしれませんが、
私はそれを知ったとき、(私は観た時、見落としていました)、
ラインの乙女はヴォータンに何か報告していたんだと思いました。

そもそもラインの乙女はヴォータンが経営する風俗店で働く風俗嬢のように
描かれていました。 そしてアルベリッヒはヴォータンの経営する別会社であるガソリンスタンドの雇われ店長って感じでした。
が、同時にその風俗店に来たお客さんといった感じでもありました。 もしかすると常連客だったのかもしれません。

ラインの乙女はヴォータンに、アルベリッヒが黄金を盗んでいったことを報告した、と受け止めるのは、決して不自然ではないでしょう。

では、それは警察にでも訴えるようにヴォータンに訴えていたのでしょうか??
いえ、ヴォータンは黄金、指輪を騙し取りに行くのですから、そういう用件でかけていたのではないでしょう。

そうではなくて、ヴォータンの指示によって、アルベリッヒに黄金を奪わせて、首尾よく事が運んだことを報告していた、と捉えるのが自然ではないでしょうか。

そうだとすると、ヴォータンは始めっから指輪には何の力もないのは分かり切っていたわけですし、その後のヴォータンの振る舞いとも上手く噛み合います。

ヴォータンははじめっから指輪に力がないことを知っていたのでしょう。

この点が、私のカストルフ演出を読み解くスタートラインになりました。


追ってまた後日。

以上、ご参考にしていただけましたら幸甚です。

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