2013・8・6(火)下野竜也指揮キリシマ祝祭管弦楽団 東京公演
東京オペラシティコンサートホール 7時
霧島音楽祭(第34回、現音楽監督・堤剛)が東京公演を開催するのは、14年ぶりのことだそうだ。
プログラムは8月1日(別項)と同じベートーヴェンの「交響曲第1番」及びワーグナーの「ヴァルキューレ」第1幕。演奏者も同じ。ただ、オーケストラのメンバーの一部に若干の変更があったかどうかまでは、定かでない。
ともあれ、国内各オケの首席クラスの精鋭を主力とし、海外の名手たちも何人か加わった腕利きの祝祭管弦楽団のことだから、本気になれば凄い馬力を出すのは当然。今日のオーケストラは、1日の鹿児島公演の時よりも、いっそうリキが入っていた。交響曲はもちろんのこと、「ヴァルキューレ」第1幕も序奏からして重厚かつ剛直な力感にあふれ、ただならぬ意気込み、といったものが伝わって来る。
後者の序奏の最初の部分でバレンボイムの提案により加えられたという第1ヴァイオリンのパート(1日の項参照)も、今日は一段と迫力ある効果を発揮していた。
ジークムントを歌ったアレクセイ・ステブリアンコは、出だしは鹿児島公演とは別人のように「逞しい英雄ぶり」で、これなら大丈夫かと思わせた(あの時はよほど体調が悪かったのだろう)が、次第にまた、元の木阿弥になって行ってしまったのには落胆。基本的にドイツ語の発音が明確でないためにリズム感が全く無くなってしまうのと、声質が昔より太く重くなり、ジークムント役としては鈍重さ(失礼)を感じさせてしまうことなどが問題であろう。
それでも「ヴェルゼ!」は鹿児島公演の時よりはそこそこ延ばしていたし、ペットボトルの水を飲みながらも最後まで頑張って一所懸命歌っていたから、善しとしようか。
ジークリンデのエカテリーナ・シマノヴィチは鹿児島と同様に大熱演で、「帽子を目深にかぶった不思議な老人」の物語のくだりも今回は無事に進んだ。ただ、演奏会なのだから、あそこまで大きな声を出さなくてもいいだろうにとは思う。
フンディングのパーヴェル・シムレーヴィチは、今回も鋭い存在感。
下野竜也は、今夜は快調な指揮だったが、やはり器楽曲としての几帳面な表現に留まったか?
オペラの指揮はいい加減でいい、という意味ではない。そうではなく、同じライト・モティーフでも、登場人物の心理が刻々と変わって行くのにしたがい、それを反映して、たとえスコアには指定されていなくても、さまざまなニュアンスの変化を施して指揮してもらえれば、ということ。
「フンディングの動機」にしても、登場して来る場面と、ジークムントに引導を渡すくだりとでは、さらに表情の違いがあってもいいだろう、とは一つの例である。
☞モーストリークラシック11月号 公演Reviews
霧島音楽祭(第34回、現音楽監督・堤剛)が東京公演を開催するのは、14年ぶりのことだそうだ。
プログラムは8月1日(別項)と同じベートーヴェンの「交響曲第1番」及びワーグナーの「ヴァルキューレ」第1幕。演奏者も同じ。ただ、オーケストラのメンバーの一部に若干の変更があったかどうかまでは、定かでない。
ともあれ、国内各オケの首席クラスの精鋭を主力とし、海外の名手たちも何人か加わった腕利きの祝祭管弦楽団のことだから、本気になれば凄い馬力を出すのは当然。今日のオーケストラは、1日の鹿児島公演の時よりも、いっそうリキが入っていた。交響曲はもちろんのこと、「ヴァルキューレ」第1幕も序奏からして重厚かつ剛直な力感にあふれ、ただならぬ意気込み、といったものが伝わって来る。
後者の序奏の最初の部分でバレンボイムの提案により加えられたという第1ヴァイオリンのパート(1日の項参照)も、今日は一段と迫力ある効果を発揮していた。
ジークムントを歌ったアレクセイ・ステブリアンコは、出だしは鹿児島公演とは別人のように「逞しい英雄ぶり」で、これなら大丈夫かと思わせた(あの時はよほど体調が悪かったのだろう)が、次第にまた、元の木阿弥になって行ってしまったのには落胆。基本的にドイツ語の発音が明確でないためにリズム感が全く無くなってしまうのと、声質が昔より太く重くなり、ジークムント役としては鈍重さ(失礼)を感じさせてしまうことなどが問題であろう。
それでも「ヴェルゼ!」は鹿児島公演の時よりはそこそこ延ばしていたし、ペットボトルの水を飲みながらも最後まで頑張って一所懸命歌っていたから、善しとしようか。
ジークリンデのエカテリーナ・シマノヴィチは鹿児島と同様に大熱演で、「帽子を目深にかぶった不思議な老人」の物語のくだりも今回は無事に進んだ。ただ、演奏会なのだから、あそこまで大きな声を出さなくてもいいだろうにとは思う。
フンディングのパーヴェル・シムレーヴィチは、今回も鋭い存在感。
下野竜也は、今夜は快調な指揮だったが、やはり器楽曲としての几帳面な表現に留まったか?
オペラの指揮はいい加減でいい、という意味ではない。そうではなく、同じライト・モティーフでも、登場人物の心理が刻々と変わって行くのにしたがい、それを反映して、たとえスコアには指定されていなくても、さまざまなニュアンスの変化を施して指揮してもらえれば、ということ。
「フンディングの動機」にしても、登場して来る場面と、ジークムントに引導を渡すくだりとでは、さらに表情の違いがあってもいいだろう、とは一つの例である。
☞モーストリークラシック11月号 公演Reviews
コメント
今年の指輪のバイロイト新演出はカストロフ氏がカタストロフになってしまいましたが、Bothaのジークムントの”ヴェルゼ”は1万倍すごかったです。(笑)これだけが聴きに行って良かったと思いました。(笑)&(涙)
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