2013・8・1(木)下野竜也指揮キリシマ祝祭管弦楽団 「ヴァルキューレ」第1幕
宝山ホール(鹿児島) 7時
鹿児島の「霧島国際音楽祭」(音楽監督・堤剛)を訪問するのは、これが2回目。
今年(第34回)は、7月17日から8月4日まで開催。東京他から参画した一流演奏家を講師陣とするアカデミーは高原の「みやまコンセール(霧島国際音楽ホール)」で、また一般聴衆向けのコンサートは同会場の他、鹿児島市内の宝山ホールや鹿児島市民文化ホール、霧島市民会館、霧島神宮などで行われている。
詳細は、前回訪問の記を――左側にある「2010年7月」の「29日」の項を参照されたく。これは国内のアカデミー音楽祭の中でも、極めて大規模なものの一つである。高関健と下野竜也を講師陣とする指揮コースがあるのも珍しく、豪華なアカデミーと言えよう。
今回聴いたのは、今年の音楽祭の公演のハイライトともいうべき、ワーグナーの「ヴァルキューレ」第1幕の演奏会形式上演だ。
今年は夏から秋にかけ、東京と九州で「ヴァルキューレ」第1幕の演奏会形式上演が何と5種・計8回もあり(全曲上演も横浜とびわ湖で計4回ある)、ちょっとした「ヴァルキューレ大戦争」の趣きだが、今回の下野=霧島のそれは、6月27日の大野=九響に続く第2弾にあたる。
この「ヴァルキューレ」第1幕の演奏のためにステージに並んだ「キリシマ祝祭管弦楽団」のメンバーたるや、すこぶる壮観である。
第1ヴァイオリンには、コンサートマスターにローター・シュトラウス(シュターツカペレ・ベルリンのコンマス)を迎え、トップサイドに藤原浜雄、2プルトに松原勝也と長原幸太、3プルトに小森谷巧、4プルトに川久保賜紀といった贅沢な顔ぶれがアカデミー生たちを従えて並ぶわけだから、他のパートも推して知るべし。日本各地のオケの首席クラスがずらりと「前の方」に並んでいるだけでなく、フェデリコ・アゴスティーニ(第2ヴァイオリン)、エミリー・バイノン(フルート)、安楽真理子(ハープ)といった名手たちも加わっている。
声楽ソリストは、ゲルギエフからの推薦によるというマリインスキー・オペラからの歌手で構成され、ジークムントをアレクセイ・ステブリアンコ、ジークリンデをエカテリーナ・シマノヴィチ、フンディングをパーヴェル・シムレーヴィチという陣容。
なお、プログラムの第1部では、ベートーヴェンの「交響曲第1番」が演奏されたが、こちらの方はコンマスを藤原浜雄が務め、その他のパートにも若干の奏者の異動がある。
祝祭管弦楽団の演奏は、まことに強靭だった。いろいろなオーケストラの奏者が主力となっているから、オレがオレがという演奏にはならず、アンサンブルも見事にまとまる。しかも、下野竜也の巧みな音楽づくりのためもあって、それが決して予定調和的な、なだらかで平板なものになることがない。音のメリハリは強く、演奏は最良の意味でギザギザとケバ立ち、強い個性を押し出すものとなっていたのがいい。
特に第1部の「第1交響曲」は、成功していた。ベートーヴェンがスコアに綿密に書き込んだsfや、アクセントとしてのfやffなどが明確に、たたきつけられるように強調され、ベートーヴェンらしい気魄の音楽が、見事に再現されていたのである。
この勢いでワーグナーも・・・・と「ヴァルキューレ」第1幕に満腔の期待をかけてこちらも臨んだのだが、――やや期待を大きく持ちすぎたか。オーケストラには確かに威力はあったが、それが登場人物の心理を微細に反映したり、壮大な陶酔感、劇的な昂揚感を打ち出したり、という点までは、残念ながらかなりの距離を感じさせた。率直に言えば、オペラの指揮にはまだ経験の浅い下野にとっての、それが一種の壁のようなものだったということになるかもしれない。
だが、すべてを彼のせいにしては酷であろう。
大きな問題は、ジークムントを歌ったステブリアンコにあったのではないか。水を頻繁に飲んだり何度も咳をしたりと、明らかに体調不良だったことには同情の余地はあるが、呆れるほどリズム感の曖昧な、しかも旋律も定かでないほど音程の不安定な歌唱は、オーケストラを含む演奏全体を、何とも締まりのないものにしてしまったのである。
これに対し、ジークリンデ役のシマノヴィチは、明快で情熱的な歌唱を披露した。ただ一つ、ヴォータンが剣をトネリコに突き刺して行ったエピソードを歌う個所で、完全にオケとずれてガタガタになってしまったのにはハラハラさせられたが、これは指揮者との呼吸の問題もあるだろう(オペラに熟練の指揮者であれば、たちどころにまとめてしまう類の事故ではある)。それを除けば、彼女の声は素晴らしい。
結局、出番は少ないが凄みを利かせたのは、やはりフンディングのシムレーヴィチであった。
いずれにせよ、6日の東京公演(オペラシティ)では、このあたりの問題点はすべて解決されているであろう――そう願いたい。
なお、序奏の嵐の音楽の個所で、スコアには無いはずの第1ヴァイオリンが冒頭から加わっていたが、これはバレンボイムのアイディアとのこと。今回はコンマスのシュトラウスの提案により演奏された由である。
もう一つ、字幕についての拙見を。――ワーグナーの場合、オケが極めて雄弁な表現力を持つために、しばしば舞台上の光景をオケが独自に長々と物語る場面がある。この曲では、ジークリンデがジークムントに、トネリコの幹に刺さった宝剣ノートゥングを目で指し示して去って行くさまをオーケストラだけが描くくだりだ。ここは非常に重要な個所だが、初めて聴くお客さんには、音楽だけでは一体何が起こっているのだか、全く理解できないだろう。ト書きを字幕に出すのは非常に煩わしい印象を与えるので、私も原則的には賛成できないが、このような特別な個所では、やはり必要最小限、物語風にでもいいから、字幕で簡単に一言説明を加えてあげることも必要ではないかと思うのだが、・・・・如何なものだろうか?
終演は9時。翌朝一番の便で帰京するため、夜遅く鹿児島空港ホテルに移動する。空港が目の前に見えてすこぶる便利なところだが、惜しむらくはこのホテル、浴室内が古びて暗いのが難点だ。
鹿児島の「霧島国際音楽祭」(音楽監督・堤剛)を訪問するのは、これが2回目。
今年(第34回)は、7月17日から8月4日まで開催。東京他から参画した一流演奏家を講師陣とするアカデミーは高原の「みやまコンセール(霧島国際音楽ホール)」で、また一般聴衆向けのコンサートは同会場の他、鹿児島市内の宝山ホールや鹿児島市民文化ホール、霧島市民会館、霧島神宮などで行われている。
詳細は、前回訪問の記を――左側にある「2010年7月」の「29日」の項を参照されたく。これは国内のアカデミー音楽祭の中でも、極めて大規模なものの一つである。高関健と下野竜也を講師陣とする指揮コースがあるのも珍しく、豪華なアカデミーと言えよう。
今回聴いたのは、今年の音楽祭の公演のハイライトともいうべき、ワーグナーの「ヴァルキューレ」第1幕の演奏会形式上演だ。
今年は夏から秋にかけ、東京と九州で「ヴァルキューレ」第1幕の演奏会形式上演が何と5種・計8回もあり(全曲上演も横浜とびわ湖で計4回ある)、ちょっとした「ヴァルキューレ大戦争」の趣きだが、今回の下野=霧島のそれは、6月27日の大野=九響に続く第2弾にあたる。
この「ヴァルキューレ」第1幕の演奏のためにステージに並んだ「キリシマ祝祭管弦楽団」のメンバーたるや、すこぶる壮観である。
第1ヴァイオリンには、コンサートマスターにローター・シュトラウス(シュターツカペレ・ベルリンのコンマス)を迎え、トップサイドに藤原浜雄、2プルトに松原勝也と長原幸太、3プルトに小森谷巧、4プルトに川久保賜紀といった贅沢な顔ぶれがアカデミー生たちを従えて並ぶわけだから、他のパートも推して知るべし。日本各地のオケの首席クラスがずらりと「前の方」に並んでいるだけでなく、フェデリコ・アゴスティーニ(第2ヴァイオリン)、エミリー・バイノン(フルート)、安楽真理子(ハープ)といった名手たちも加わっている。
声楽ソリストは、ゲルギエフからの推薦によるというマリインスキー・オペラからの歌手で構成され、ジークムントをアレクセイ・ステブリアンコ、ジークリンデをエカテリーナ・シマノヴィチ、フンディングをパーヴェル・シムレーヴィチという陣容。
なお、プログラムの第1部では、ベートーヴェンの「交響曲第1番」が演奏されたが、こちらの方はコンマスを藤原浜雄が務め、その他のパートにも若干の奏者の異動がある。
祝祭管弦楽団の演奏は、まことに強靭だった。いろいろなオーケストラの奏者が主力となっているから、オレがオレがという演奏にはならず、アンサンブルも見事にまとまる。しかも、下野竜也の巧みな音楽づくりのためもあって、それが決して予定調和的な、なだらかで平板なものになることがない。音のメリハリは強く、演奏は最良の意味でギザギザとケバ立ち、強い個性を押し出すものとなっていたのがいい。
特に第1部の「第1交響曲」は、成功していた。ベートーヴェンがスコアに綿密に書き込んだsfや、アクセントとしてのfやffなどが明確に、たたきつけられるように強調され、ベートーヴェンらしい気魄の音楽が、見事に再現されていたのである。
この勢いでワーグナーも・・・・と「ヴァルキューレ」第1幕に満腔の期待をかけてこちらも臨んだのだが、――やや期待を大きく持ちすぎたか。オーケストラには確かに威力はあったが、それが登場人物の心理を微細に反映したり、壮大な陶酔感、劇的な昂揚感を打ち出したり、という点までは、残念ながらかなりの距離を感じさせた。率直に言えば、オペラの指揮にはまだ経験の浅い下野にとっての、それが一種の壁のようなものだったということになるかもしれない。
だが、すべてを彼のせいにしては酷であろう。
大きな問題は、ジークムントを歌ったステブリアンコにあったのではないか。水を頻繁に飲んだり何度も咳をしたりと、明らかに体調不良だったことには同情の余地はあるが、呆れるほどリズム感の曖昧な、しかも旋律も定かでないほど音程の不安定な歌唱は、オーケストラを含む演奏全体を、何とも締まりのないものにしてしまったのである。
これに対し、ジークリンデ役のシマノヴィチは、明快で情熱的な歌唱を披露した。ただ一つ、ヴォータンが剣をトネリコに突き刺して行ったエピソードを歌う個所で、完全にオケとずれてガタガタになってしまったのにはハラハラさせられたが、これは指揮者との呼吸の問題もあるだろう(オペラに熟練の指揮者であれば、たちどころにまとめてしまう類の事故ではある)。それを除けば、彼女の声は素晴らしい。
結局、出番は少ないが凄みを利かせたのは、やはりフンディングのシムレーヴィチであった。
いずれにせよ、6日の東京公演(オペラシティ)では、このあたりの問題点はすべて解決されているであろう――そう願いたい。
なお、序奏の嵐の音楽の個所で、スコアには無いはずの第1ヴァイオリンが冒頭から加わっていたが、これはバレンボイムのアイディアとのこと。今回はコンマスのシュトラウスの提案により演奏された由である。
もう一つ、字幕についての拙見を。――ワーグナーの場合、オケが極めて雄弁な表現力を持つために、しばしば舞台上の光景をオケが独自に長々と物語る場面がある。この曲では、ジークリンデがジークムントに、トネリコの幹に刺さった宝剣ノートゥングを目で指し示して去って行くさまをオーケストラだけが描くくだりだ。ここは非常に重要な個所だが、初めて聴くお客さんには、音楽だけでは一体何が起こっているのだか、全く理解できないだろう。ト書きを字幕に出すのは非常に煩わしい印象を与えるので、私も原則的には賛成できないが、このような特別な個所では、やはり必要最小限、物語風にでもいいから、字幕で簡単に一言説明を加えてあげることも必要ではないかと思うのだが、・・・・如何なものだろうか?
終演は9時。翌朝一番の便で帰京するため、夜遅く鹿児島空港ホテルに移動する。空港が目の前に見えてすこぶる便利なところだが、惜しむらくはこのホテル、浴室内が古びて暗いのが難点だ。
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