2013・3・30(土)旅行日記(2) チャイコフスキー:「マゼッパ」
ベルリン・コーミッシェ・オーパー 7時
ベルリンに来てまでチャイコフスキーのオペラを観るか、という気もするが、ロシアとは縁のない解釈の読み替え演出を承知の上で観に来た。2月24日にプレミエされたイーヴォ・ファン・ホーヴェ演出によるプロダクション。ちゃんとロシア語で歌っていた。KOBも原語上演でやるようになったとは知らなかった。ただし、素人耳で聞いてさえ、あまりロシア語っぽく聞こえなかったが。
マゼッパは、17~18世紀に生きたウクライナのコサックの首長で、ピョートル大帝に叛旗を翻してスウェーデンと結び自滅した、謎の多い人物。
このオペラでは、ウクライナの大地主コチュベイの娘で、親子以上に年齢の違うマリヤと恋に落ち、恨みを向けて来るコチュベイを処刑し、マリヤを発狂させてしまい、挙句の果てはポルタヴァの戦いで大帝軍に敗れ敗走して行く――という物語となっている。
コーミッシェ・オーパーのプロダクションだから、また何か極端な暴力アクションにでも化けるのでは、と警戒していたのだが、物語の時代を現代に変えたことはともかく、それ以外の点では比較的まともな演出だったのに一安心。
第1幕序奏と、第3幕冒頭の「ポルタヴァの戦い」などでの長いオーケストラだけの演奏個所では、現代の戦争、大災害、公害、処刑場面などの惨酷極まりない映像が舞台に投影される(もちろん日本の大震災被害の映像も交じっている)。
これは近年流行の手法だ。それら世界の現実から目を背けてはならぬ、ということでもあろう。とはいえこの場は、所詮、絵空事のオペラの世界。それも歌劇場でぬくぬくと音楽を聴き、歌手の歌に拍手しているが如きわれわれ泰平の観客に何が分かる、という矛盾にもぶつかってしまうわけで、それゆえ私は、こういう舞台を観るたびに苦しくなって来るのだ――。
それはともかく、どう扱われるかと注目していたのは、第2幕幕切れ、コチュベイらの処刑場面。ここでのオリジナルのト書きでは、死刑執行人が斧で彼らの首を落し、民衆がそれを憐れむということになっているが、この演出では民衆そのものが銃をとって彼らを撃ち殺し、それを「強制された暴力」としてその怒りを指導者マゼッパに向ける、という解釈に替えられていた。これは、しかし巧い解釈だろう。
マリヤ(アスミク・グリゴリアン、容姿がよろしい)という女性の描き方は、この演出では、激しい。自らの意志でマゼッパの妻になったことが何故悪い――という怒りを底流に秘めているかのような演技である。無邪気で無思慮で哀れな女ではなく、むしろ自らの意志を貫き通しつつ、それが引き起こした悲劇との葛藤に悩む女――として描くのが狙いなのだろう。
ラストシーン、彼女は子守歌を歌い終ると、足音も荒く立ち去って行く。まるで、自らの錯乱も一時的な現象に過ぎぬ、こんな制約された理不尽な、戦乱と暴力の世界に未練など無い――と言わんばかりの態度で。それはそれで一理ある手法ではあるが。
このラストシーンの音楽は、如何にもチャイコフスキーらしく、哀愁に富んで美しい。以前METで、ゲルギエフの指揮で観た演出では、マリヤは子守歌を歌いながらさまよい、雪がしんしんと降りしきる闇の中へ姿を消して行く・・・・という光景が音楽とこの上なくマッチして、胸がしめつけられるような感動を味わったものだ。
それに比べると今回のこれは、如何にも突き放した手法で、味も素っ気も余韻もない。まあ、これもしかし、一つの解釈なのだろう。
マゼッパ役は、ロバート・ヘイワードというバリトン。スキンヘッドの軍人といういでたちだ。物凄く声が大きい。
コチュベイ役はアレクセイ・アントノフという長身のバス。マリヤの母リュボフはアグネス・ツヴィエルコで、彼女も相当な声量だ。マリヤもそうだったが、今回はみんな歌声が客席にビンビン響いて来る。もともと大きな客席ではないし、よく声が届く歌劇場なのだから、あんなに割れ鐘のように怒鳴らなくてもいいんじゃないか、と思わせるところもある。
その中で、マリヤに想いを寄せる純な青年アンドレイ(彼も最後にマリヤの足元に倒れて死んで行く)を歌ったテノールのアレシュ・ブリセインが、叙情的でシンの強い声で、バランスのいい歌唱を聞かせた。観客の拍手が一番大きかったのはこの人に対してだった。
指揮は、このコーミッシェ・オーパーの音楽監督・首席指揮者のハンガリー出身、今年38歳のヘンリク・ナーナージ(こういう表記でもいいのだろうか?)※。手堅く引き締まった、いい指揮をする若手だ。
30分の休憩1回を挟み、10時15分終演。昼間は薄日も出ていたが、夜になってまた小雪が降り出した。劇場に近い地下鉄のStadtmitte駅からホテルに近いZoologischer Garten駅まではU2線1本だが、イースター前夜の土曜日の所為か、地下鉄に乗り込んで来てサックスなどを吹き、歌いまくってみせる若者たちが多い。しかし乗客たちは、中年も年輩も、みんな寛容な笑顔を彼らに向ける。
※知人のドイツ在住ジャーナリストがKOBのプレス担当者に問い合わせてくれたところによると、「ヘンリーク・ナーナーシ」と発音されたい、とのことだった。
ベルリンに来てまでチャイコフスキーのオペラを観るか、という気もするが、ロシアとは縁のない解釈の読み替え演出を承知の上で観に来た。2月24日にプレミエされたイーヴォ・ファン・ホーヴェ演出によるプロダクション。ちゃんとロシア語で歌っていた。KOBも原語上演でやるようになったとは知らなかった。ただし、素人耳で聞いてさえ、あまりロシア語っぽく聞こえなかったが。
マゼッパは、17~18世紀に生きたウクライナのコサックの首長で、ピョートル大帝に叛旗を翻してスウェーデンと結び自滅した、謎の多い人物。
このオペラでは、ウクライナの大地主コチュベイの娘で、親子以上に年齢の違うマリヤと恋に落ち、恨みを向けて来るコチュベイを処刑し、マリヤを発狂させてしまい、挙句の果てはポルタヴァの戦いで大帝軍に敗れ敗走して行く――という物語となっている。
コーミッシェ・オーパーのプロダクションだから、また何か極端な暴力アクションにでも化けるのでは、と警戒していたのだが、物語の時代を現代に変えたことはともかく、それ以外の点では比較的まともな演出だったのに一安心。
第1幕序奏と、第3幕冒頭の「ポルタヴァの戦い」などでの長いオーケストラだけの演奏個所では、現代の戦争、大災害、公害、処刑場面などの惨酷極まりない映像が舞台に投影される(もちろん日本の大震災被害の映像も交じっている)。
これは近年流行の手法だ。それら世界の現実から目を背けてはならぬ、ということでもあろう。とはいえこの場は、所詮、絵空事のオペラの世界。それも歌劇場でぬくぬくと音楽を聴き、歌手の歌に拍手しているが如きわれわれ泰平の観客に何が分かる、という矛盾にもぶつかってしまうわけで、それゆえ私は、こういう舞台を観るたびに苦しくなって来るのだ――。
それはともかく、どう扱われるかと注目していたのは、第2幕幕切れ、コチュベイらの処刑場面。ここでのオリジナルのト書きでは、死刑執行人が斧で彼らの首を落し、民衆がそれを憐れむということになっているが、この演出では民衆そのものが銃をとって彼らを撃ち殺し、それを「強制された暴力」としてその怒りを指導者マゼッパに向ける、という解釈に替えられていた。これは、しかし巧い解釈だろう。
マリヤ(アスミク・グリゴリアン、容姿がよろしい)という女性の描き方は、この演出では、激しい。自らの意志でマゼッパの妻になったことが何故悪い――という怒りを底流に秘めているかのような演技である。無邪気で無思慮で哀れな女ではなく、むしろ自らの意志を貫き通しつつ、それが引き起こした悲劇との葛藤に悩む女――として描くのが狙いなのだろう。
ラストシーン、彼女は子守歌を歌い終ると、足音も荒く立ち去って行く。まるで、自らの錯乱も一時的な現象に過ぎぬ、こんな制約された理不尽な、戦乱と暴力の世界に未練など無い――と言わんばかりの態度で。それはそれで一理ある手法ではあるが。
このラストシーンの音楽は、如何にもチャイコフスキーらしく、哀愁に富んで美しい。以前METで、ゲルギエフの指揮で観た演出では、マリヤは子守歌を歌いながらさまよい、雪がしんしんと降りしきる闇の中へ姿を消して行く・・・・という光景が音楽とこの上なくマッチして、胸がしめつけられるような感動を味わったものだ。
それに比べると今回のこれは、如何にも突き放した手法で、味も素っ気も余韻もない。まあ、これもしかし、一つの解釈なのだろう。
マゼッパ役は、ロバート・ヘイワードというバリトン。スキンヘッドの軍人といういでたちだ。物凄く声が大きい。
コチュベイ役はアレクセイ・アントノフという長身のバス。マリヤの母リュボフはアグネス・ツヴィエルコで、彼女も相当な声量だ。マリヤもそうだったが、今回はみんな歌声が客席にビンビン響いて来る。もともと大きな客席ではないし、よく声が届く歌劇場なのだから、あんなに割れ鐘のように怒鳴らなくてもいいんじゃないか、と思わせるところもある。
その中で、マリヤに想いを寄せる純な青年アンドレイ(彼も最後にマリヤの足元に倒れて死んで行く)を歌ったテノールのアレシュ・ブリセインが、叙情的でシンの強い声で、バランスのいい歌唱を聞かせた。観客の拍手が一番大きかったのはこの人に対してだった。
指揮は、このコーミッシェ・オーパーの音楽監督・首席指揮者のハンガリー出身、今年38歳のヘンリク・ナーナージ(こういう表記でもいいのだろうか?)※。手堅く引き締まった、いい指揮をする若手だ。
30分の休憩1回を挟み、10時15分終演。昼間は薄日も出ていたが、夜になってまた小雪が降り出した。劇場に近い地下鉄のStadtmitte駅からホテルに近いZoologischer Garten駅まではU2線1本だが、イースター前夜の土曜日の所為か、地下鉄に乗り込んで来てサックスなどを吹き、歌いまくってみせる若者たちが多い。しかし乗客たちは、中年も年輩も、みんな寛容な笑顔を彼らに向ける。
※知人のドイツ在住ジャーナリストがKOBのプレス担当者に問い合わせてくれたところによると、「ヘンリーク・ナーナーシ」と発音されたい、とのことだった。
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