2013・3・29(金)旅行日記(1) ワーグナー:「パルジファル」
ベルリン・ドイツオペラ 4時
前日、ベルリンに入る。今日は聖金曜日。
たとえキリスト教徒でなくても、聖金曜日に「パルジファル」を観るのはオツなものだろう。
このプロダクションは、昨年10月21日にプレミエされた、フィリップ・シュテルツル演出による新制作である。
今日の演奏は、ドナルド・ラニクルズの指揮、スティーヴン・グールド(パルジファル)、ヴィオレータ・ウルマナ(クンドリ)、リアン・リ(グルネマンツ)、サミュエル・ユン(クリングゾル)、スティーヴン・ブロンク(ティトゥレル)他。
シュテルツルの演出となれば、どうせ舞台はゴチャゴチャして、大勢の人間がひしめき合う類のものになるのでは、と予想していたが、果たせるかな、この「パルジファル」も、舞台上はかなりごった返した景観になっていた。3幕を通じて大きな岩山が聳えているため、視覚的にも圧迫感を生じさせる。
それはいいとしても、下手側の岩山の頂上に玩具のような城が建っているというのは、何とも野暮ったい。だがこの野暮ったさは、この演出全般に言えることだろう。
前奏曲が始まるとすぐ幕が開き、ゴルゴタの丘におけるキリスト処刑の場が現われ、彼の脇腹を槍で突く兵士、そこから流れ出た血を杯で受けるヨセフ、その槍を兵士から記念として受け取る人々――といった模様がまず描かれる。
聖槍と聖杯の所以をもう一度細かくおさらいしておきましょう、というわけらしいが、いまどきメジャーな歌劇場のプロダクションが、わざわざそこから話を始めるか。それに、近年の「パルジファル」演出の主流が「脱キリスト性」にある中で、これはまた珍しく原点に戻った「聖槍と聖杯の物語」的な演出だ。
これが第3幕でアムフォルタス王が十字架を背負っていることへの伏線になることはあとで解るが、それにしてもこのリアルな光景は、あの「前奏曲」の幻想的で神秘的な静寂感とは全く異質なもので、音楽の雰囲気ぶち壊しである。
この事細かな説明調は、その後も繰り返される。
第1幕でグルネマンツが歌詞とオーケストラの動機とだけで物語る内容の数々――聖槍と聖杯がティトゥレル王に托されるところ、クリングゾルが我と我が身を傷つけるところ(これは歌詞の中では暗示のみ)、アムフォルタス王がクンドリの誘惑に陥って聖槍をクリングゾルに奪われるところ、第2幕でパルジファルがクリングゾル軍兵士を斃しつつ近づいて来るところ、第3幕でティトゥレル王が死去する(と語られる)ところなどが、一つ一つ事細かに、岩山の上でリアルな場面として演じられる。
この種の手法は、時に他の演出でも行なわれる(日本ではローウェルス演出の「ヴァルキューレ」などがあった)のは事実だが、大抵は背景で象徴的に展開される方法が採られるものだ。今回のように具体的に演じられると、何か劇画的で、子供向けの芝居みたいな印象になってしまう。それだけ、解りやすいのは確かだろうが。
第2幕の「花の乙女」も、両端幕での聖杯守護団騎士も、いずれも「大群衆」なのはいかにもシュテルツルの演出らしい。前者にはトップレスのダンサーが混じり、後者には自らを鞭打ちつつ歩く苦行の男たちも混じって、いや賑やかというか、騒々しいというか。
注目すべきアイディアもある。たとえば第1幕での十字軍の服装をした騎士団の中に、乱れたスーツとネクタイ姿のパルジファルがやって来ること。
これは、騎士団から見れば、異次元の世界から理解不可能な青年が紛れ込んで来たように思えるし、一方パルジファルから見れば、現代からタイムスリップして訳の解らぬ中世に来てしまったように感じられよう。
「何処から来た?」「解らない」「どうやって此処に来た?」「解らない」というグルネマンツとパルジファルの対話を、これほど明確に説明した(?)演出も稀かもしれぬ。グルネマンツにとって、確かにパルジファルは不思議な「愚か者」そのものなのである。
この「信長のシェフ」か「戦国自衛隊」みたいな設定が、第3幕に至って意外な展開と解決の伏線になるのか、と期待したのだが、案に相違して、第3幕では全員の服装が現代風になってしまった。
大詰では、パルジファルが槍先で病めるアムフォルタス王の傷口に触れると、王は自らその槍に我が身を寄せるようにして死に、パルジファルは新王として王冠を捧げられ、山上では聖杯開帳の儀が行なわれる。
むしろここでは、パルジファルが聖槍を携えて現代に戻り、「永遠に救済を待つ者たち」に宗教的拠り所を与える設定になるのかとも思ったのだが、この雑然たる舞台では、それもあまり明確にはなっていない。このあたりが、時代の変遷をしっかり踏まえ、それを解りやすく整理して描いたヘアハイムの見事な演出(バイロイト)とは根本的に異なり、雑然としていて野暮ったい、と思わせるところなのだが・・・・。
他にもいろいろ趣向があるが、どれもドラマとしての一貫性があまり感じられないので、もう止めよう。
歌手陣では、グールドとウルマナが安定して傑出していた。ラニクルズの指揮は、演奏時間からすればやや遅めのテンポということになるが、聴いた感じでは非常に遅いテンポに感じられた。これは、演奏における緊迫度が少し薄かったためだろう。
30分の休憩2回を挟み、9時15分に終演。深夜にならずに終ったのは有難い。
今朝から降っていた雪は止んだが、激しく冷える。イースターの連休で、街は人気も少ない。
思えば、ここベルリン・ドイツオペラで「パルジファル」を観たのは、10年ほど前にティーレマンの指揮、ゲッツ・フリードリヒ演出の上演に接して以来のことだ。以前なら公演のあとには楽屋へ行って、ここのオケのメンバーだったヴァイオリンの眞峯紀一郎さんを訪ねたものだったが・・・・。
なお眞峯さんは夏のバイロイト音楽祭のレギュラー奏者でもあったため、同じ常連たちと今は「バイロイト祝祭ヴァイオリン・クァルテット」を組織して活躍中だ。来週4月5日(金)に「東京・春・音楽祭」の公演として東京文化会館小ホールで、また4月8日(月)にも名古屋宗次ホールで演奏会を開くことになっている。ヴァイオリン4本の弦楽四重奏団というのは珍しく、ちょっと不思議な、えも言われぬ幻想的な美しい音がするので、今回も聴いてみようと楽しみにしているところである。
前日、ベルリンに入る。今日は聖金曜日。
たとえキリスト教徒でなくても、聖金曜日に「パルジファル」を観るのはオツなものだろう。
このプロダクションは、昨年10月21日にプレミエされた、フィリップ・シュテルツル演出による新制作である。
今日の演奏は、ドナルド・ラニクルズの指揮、スティーヴン・グールド(パルジファル)、ヴィオレータ・ウルマナ(クンドリ)、リアン・リ(グルネマンツ)、サミュエル・ユン(クリングゾル)、スティーヴン・ブロンク(ティトゥレル)他。
シュテルツルの演出となれば、どうせ舞台はゴチャゴチャして、大勢の人間がひしめき合う類のものになるのでは、と予想していたが、果たせるかな、この「パルジファル」も、舞台上はかなりごった返した景観になっていた。3幕を通じて大きな岩山が聳えているため、視覚的にも圧迫感を生じさせる。
それはいいとしても、下手側の岩山の頂上に玩具のような城が建っているというのは、何とも野暮ったい。だがこの野暮ったさは、この演出全般に言えることだろう。
前奏曲が始まるとすぐ幕が開き、ゴルゴタの丘におけるキリスト処刑の場が現われ、彼の脇腹を槍で突く兵士、そこから流れ出た血を杯で受けるヨセフ、その槍を兵士から記念として受け取る人々――といった模様がまず描かれる。
聖槍と聖杯の所以をもう一度細かくおさらいしておきましょう、というわけらしいが、いまどきメジャーな歌劇場のプロダクションが、わざわざそこから話を始めるか。それに、近年の「パルジファル」演出の主流が「脱キリスト性」にある中で、これはまた珍しく原点に戻った「聖槍と聖杯の物語」的な演出だ。
これが第3幕でアムフォルタス王が十字架を背負っていることへの伏線になることはあとで解るが、それにしてもこのリアルな光景は、あの「前奏曲」の幻想的で神秘的な静寂感とは全く異質なもので、音楽の雰囲気ぶち壊しである。
この事細かな説明調は、その後も繰り返される。
第1幕でグルネマンツが歌詞とオーケストラの動機とだけで物語る内容の数々――聖槍と聖杯がティトゥレル王に托されるところ、クリングゾルが我と我が身を傷つけるところ(これは歌詞の中では暗示のみ)、アムフォルタス王がクンドリの誘惑に陥って聖槍をクリングゾルに奪われるところ、第2幕でパルジファルがクリングゾル軍兵士を斃しつつ近づいて来るところ、第3幕でティトゥレル王が死去する(と語られる)ところなどが、一つ一つ事細かに、岩山の上でリアルな場面として演じられる。
この種の手法は、時に他の演出でも行なわれる(日本ではローウェルス演出の「ヴァルキューレ」などがあった)のは事実だが、大抵は背景で象徴的に展開される方法が採られるものだ。今回のように具体的に演じられると、何か劇画的で、子供向けの芝居みたいな印象になってしまう。それだけ、解りやすいのは確かだろうが。
第2幕の「花の乙女」も、両端幕での聖杯守護団騎士も、いずれも「大群衆」なのはいかにもシュテルツルの演出らしい。前者にはトップレスのダンサーが混じり、後者には自らを鞭打ちつつ歩く苦行の男たちも混じって、いや賑やかというか、騒々しいというか。
注目すべきアイディアもある。たとえば第1幕での十字軍の服装をした騎士団の中に、乱れたスーツとネクタイ姿のパルジファルがやって来ること。
これは、騎士団から見れば、異次元の世界から理解不可能な青年が紛れ込んで来たように思えるし、一方パルジファルから見れば、現代からタイムスリップして訳の解らぬ中世に来てしまったように感じられよう。
「何処から来た?」「解らない」「どうやって此処に来た?」「解らない」というグルネマンツとパルジファルの対話を、これほど明確に説明した(?)演出も稀かもしれぬ。グルネマンツにとって、確かにパルジファルは不思議な「愚か者」そのものなのである。
この「信長のシェフ」か「戦国自衛隊」みたいな設定が、第3幕に至って意外な展開と解決の伏線になるのか、と期待したのだが、案に相違して、第3幕では全員の服装が現代風になってしまった。
大詰では、パルジファルが槍先で病めるアムフォルタス王の傷口に触れると、王は自らその槍に我が身を寄せるようにして死に、パルジファルは新王として王冠を捧げられ、山上では聖杯開帳の儀が行なわれる。
むしろここでは、パルジファルが聖槍を携えて現代に戻り、「永遠に救済を待つ者たち」に宗教的拠り所を与える設定になるのかとも思ったのだが、この雑然たる舞台では、それもあまり明確にはなっていない。このあたりが、時代の変遷をしっかり踏まえ、それを解りやすく整理して描いたヘアハイムの見事な演出(バイロイト)とは根本的に異なり、雑然としていて野暮ったい、と思わせるところなのだが・・・・。
他にもいろいろ趣向があるが、どれもドラマとしての一貫性があまり感じられないので、もう止めよう。
歌手陣では、グールドとウルマナが安定して傑出していた。ラニクルズの指揮は、演奏時間からすればやや遅めのテンポということになるが、聴いた感じでは非常に遅いテンポに感じられた。これは、演奏における緊迫度が少し薄かったためだろう。
30分の休憩2回を挟み、9時15分に終演。深夜にならずに終ったのは有難い。
今朝から降っていた雪は止んだが、激しく冷える。イースターの連休で、街は人気も少ない。
思えば、ここベルリン・ドイツオペラで「パルジファル」を観たのは、10年ほど前にティーレマンの指揮、ゲッツ・フリードリヒ演出の上演に接して以来のことだ。以前なら公演のあとには楽屋へ行って、ここのオケのメンバーだったヴァイオリンの眞峯紀一郎さんを訪ねたものだったが・・・・。
なお眞峯さんは夏のバイロイト音楽祭のレギュラー奏者でもあったため、同じ常連たちと今は「バイロイト祝祭ヴァイオリン・クァルテット」を組織して活躍中だ。来週4月5日(金)に「東京・春・音楽祭」の公演として東京文化会館小ホールで、また4月8日(月)にも名古屋宗次ホールで演奏会を開くことになっている。ヴァイオリン4本の弦楽四重奏団というのは珍しく、ちょっと不思議な、えも言われぬ幻想的な美しい音がするので、今回も聴いてみようと楽しみにしているところである。
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