2024年発表の『令和元年の人生ゲーム』が第171回直木賞の候補作に選出された麻布競馬場(あざぶけいばじょう)氏は、普段は会社員として働く覆面作家である。2021年のコロナ禍、Twitter(現:X)に投稿した小説が「タワマン文学」として旋風を巻き起こし、ミレニアル世代、Z世代の悲哀を描く作家として注目を集めている。そんな麻布競馬場氏だが、学生時代には世の中の「正しさ」に適応できない自分に不安を抱いていたという。

「正しい人」の呪縛から解き放たれた中学時代

 自分で言うのも何ですが、僕は子どもの頃から真面目で、親や先生から見れば「いい子」だったと思います。

 いわゆる児童文学のような「親が子どもに読ませたい本」をたくさん読んで育ちました。その一方、小3のときだったか、親が同席した面談で先生から「おたくのお子さんは他人に対する共感性が著しく低いです」と言われたことがあった。親からは「もっと人の気持ちを考えなさい」と注意されていたし、自覚もあったんです。

 小さい頃から読んできた本には、「こういう状況ではこう感じるのが正しい」という人としての模範解答が書いてありました。でも、自分はいつだって正しいことを考え、正しい行動をするわけではない。その矛盾に苦しんだ結果、僕は「いい子」になる道を選びました。それは自分の本心ではないと分かっていながら、正しい本に出てくる正しい人たちの言動をトレースしていたわけです。すごく息苦しい幼少期でした。

「子どもながらに、『自分は間違っているんじゃないか?』『悪い人間なんじゃないか?』という恐怖を抱えながら生きるようになりました」
「子どもながらに、『自分は間違っているんじゃないか?』『悪い人間なんじゃないか?』という恐怖を抱えながら生きるようになりました」
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 そんな僕を救ってくれたのが、「文学」と呼ばれるものたちだったんです。中でも、中学生の頃に読んだ大江健三郎さんの短編集 『死者の奢り・飼育』(新潮文庫) は衝撃的でした。

 そこには思わず目を背けたくなるような、じっとりと湿った陰鬱な感情が丁寧に描写されていた。正しさの模範にはなり得ない人間の存在をさも当然のように描く作家がいて、この本が芥川賞なるものを受賞するほど高く評価され、広く読まれているという事実に触れたとき、「僕はこのままでいいんだ、児童文学に登場するような清らかでまっすぐな人間のふりをしなくてもいいんだ」――そう思えました。

『死者の奢り・飼育』(大江健三郎著、新潮文庫)/画像クリックでAmazonページへ 「小学生の頃は、日曜日に家族で外食した後、母に本を2冊買ってもらうのがルーティンでした。中学校に入ると塾の行き帰りなんかに、親の目を気にせず本屋さんで好きな本を選べるように。そこで大江健三郎さんの本に出会いました」
『死者の奢り・飼育』(大江健三郎著、新潮文庫)/画像クリックでAmazonページへ 「小学生の頃は、日曜日に家族で外食した後、母に本を2冊買ってもらうのがルーティンでした。中学校に入ると塾の行き帰りなんかに、親の目を気にせず本屋さんで好きな本を選べるように。そこで大江健三郎さんの本に出会いました」

 長らくそのときの感情を忘れていたのですが、コロナ禍で自由に外出もできず、内省する以外にやることがない時間ができて、ふと『死者の奢り・飼育』を読んだときの気持ちがよみがえってきました。そこで、僕も小説を書いてみようかなと考えついたんです。

 多くの小説で「人間が美しく描かれる」のは、書き手や読み手が「人間は美しい」ということを前提に置いているから。でも僕はそうじゃない。コロナ禍の世の中は優しさや正しさを求める圧力が強かったけれど、僕や僕が知っている人間はそんなに優しくもないし、正しい人ばかりじゃない。それに、どんな人でも、他人には見られたくない薄汚さや弱さ、情けなさみたいなものは隠し持っているはずで。むしろみんながなかったことにしてきた、人間のそういう側面を書きたいなあ…と思いました。そうして「タワマン文学」を書き始めたんです。

 当時はTwitter(現:X)で、千葉にある郊外ニュータウン「流山おおたかの森」をネタにするのがはやっていて、ネット的な遊び心が入り口でした。でも今思えば、僕自身や社会、僕らが生きてきた時代について、総括したいという気持ちがあったんだと思います。

Twitter(現:X)で大きな反響を呼んだ「タワマン文学」の1作目『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』(集英社)/画像クリックでAmazonページへ
Twitter(現:X)で大きな反響を呼んだ「タワマン文学」の1作目『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』(集英社)/画像クリックでAmazonページへ

 Twitterというプラットフォームを執筆場所に選んだのは、書き手が匿名でいられて、書いたものがどんどん押し流されて見えなくなるから。誰にも遠慮する必要がないし、そのうえ「明日には忘れられてるよ」と思えば気が楽になるから、人間のうす汚さや弱さを書いて発信するには、最適な場所だったんです。

大学で感じた内部生/外部生の埋められない溝

 僕の「タワマン文学」の舞台は主に東京です。登場人物たちは、他の誰かと勝手に比較しては、その“差”を嘆いたりします。山内マリコさんの 『ここは退屈迎えに来て』(幻冬舎文庫) では「地方と東京」という対比が描かれていますが、この作品の本質を突き詰めると、自分では選べない生まれ育った場所と、自ら進んで選びとった場所という、「人生の自己決定権」にかかわる話じゃないかと思います。

『ここは退屈迎えに来て』(山内マリコ著、幻冬舎文庫)/画像クリックでAmazonページへ 「僕の作品の原点とも言える本ですね」
『ここは退屈迎えに来て』(山内マリコ著、幻冬舎文庫)/画像クリックでAmazonページへ 「僕の作品の原点とも言える本ですね」

 僕も地方出身ですが、山内さんの本を読むまでは地方というものの存在が曖昧でした。地元への愛着もない代わり、「地方は格下」といったネガティブな感情もなかったから。ただ、地方から上京して慶応大に入学してみると、「地方と東京」という対比の代わりに、ある対比を目の当たりにしました。それが内部生と外部生という対比です。

 内部生というのは、附属校からエスカレーター式で内部進学してきた人たちです。都内の裕福な家庭に生まれ育った彼らは、帰国子女で英語がペラペラですとか、バンドやっててデカいフェスに出ましたとか、すごい技能や経験をたくさん持っていた。なぜだろう、と思ってよくよく話を聞いてみると「お父さんが商社マンで、海外駐在に……」とか、「お父さんが有名な音楽家で、その影響で小さい頃からギターを……」みたいな話がどんどん出てくる。つまり、地方出身者とはスタートラインから違うんですよ。常に満たされている感じがしたし、世の中に失望したことなんて一度もないように見えました。しかもね、お金持ちなのに性格がいいんですよ。俗に言う「金持ちは性格が悪い」なんて嘘じゃん!ってめちゃくちゃ驚いたんです。片や、地方出身の外部生は苦学生も多いし、酸いも甘いもかみ分けているから気のいいやつらばっかり…と想像していたけど、僕も含めて案外ひねくれてましたね(笑)。

 生まれ育った場所の違いだけでこんなに違うんだと思いつつ、そんな構図をどう整理すればいいのか、実はよく分からないまま過ごしてきたんです。でも、山内さんの本を読んでやっと、「こういう構図だったんだ」とふに落ちた。世の中には、溝や格差は確かに存在している。そして、それによって隔てられたこっちとあっちで、違う世界が存在している…。そうした目に見えないもの、何となく言いづらいものに対して、“補助線”を引いてくれる感覚がありました。

 もちろん、慶応の内部生も東京が地元の人も、100点満点で恵まれているわけはないし、山内さんの作品もそんな単純な構図ではありません。地方出身者から見れば「スタートラインから違うじゃん、ズルい」とボヤきたくもなりますが、彼らは彼らで恵まれた人間同士の競争があったりするわけで、みんな種類は違えど何かしらの苦しみを抱えている。

 東京と地方でもこれだけ違うのに、東京に住む人の中にもそれぞれ違う「東京」があるのが更に厄介です。ある人が見ている「東京」と、また別の人が見ている「東京」には、同じ東京でもまったく違う現実が広がっているんです。中流が存在しない時代には、無数の世界が広がり、それぞれの世界はズレによって少しずつ隔てられ、まったく同じ世界を共有できる人がいない。そんな時代に、どんな“補助線”を引きながら世界を見渡せばいいのか? そんなことを僕の「タワマン文学」でも模索していますが、最初の足掛かりをくれたのはこの本だったように思います。

就活中に考えた「何者かになりたい」の正体

 他人の気持ちが分からないがゆえに、僕は幼い頃から人間や人間関係を観察してきました。好きでやっていたわけではないけれど、今では人間を観察する行為は自分にとって癒やしですし、ライフワークになっています。

 ただ、こんな僕だからこそ、就活はめちゃくちゃ得意でした。「ペルソナ」という概念がありますよね。つまり、本当の自分ではなくその場その場で「求められる自分」を使い分けるんです。面接の10分間で「本当の自分」なんて伝わるわけがないから、「どんな印象づけをすれば面接を突破できるか」を徹底的に考え、それをトレースしようと割り切っていました。OBOG訪問などで出会った会社の人たちを観察して、この会社にはこういうタイプの人が多いから、こんな感じでいけば通るだろう、と戦略を立ててペルソナを演じていたんです。

 朝井リョウさんの『何者』(新潮文庫)は、そんな就活中に読んだ本でした。僕が思うに、2010年代のキーワードって、まさに「何者」だったんじゃないかという気がしていて。一緒に飲んでいるとき、「俺も何者かになりたい!」と叫ぶ渋谷の某大手メガベンチャー勤務の友人を見ていて、そいつが言う「何者かになりたい」とは何なのか? を掘り下げてみると、つまりYAZAWAが言うところの「サクセス」を指しているんじゃないかという結論になりました。でも単なる成功ではなくて、自分らしく成功したい、かっこよく成功したいということだろうなと。

 一昔前なら、与沢翼さんなんかがそのアイコンだったかもしれない。僕は1991年生まれでいわゆる「ゆとり世代」や「さとり世代」と呼ばれますが、僕らの世代はただ成功して金持ちになるだけではなく、「自分らしくてかっこいい成功」を望んでいるんだと思ったんです。

「自分らしくかっこいい成功」というのは、いったい、どういうものなんだろうか
「自分らしくかっこいい成功」というのは、いったい、どういうものなんだろうか

 ただ、多くの場合、成功というのは泥臭く努力してこそ得られるものですよね。「自分らしくてかっこいい成功」というのはある意味、真逆のベクトルを持つ概念であるはずです。自分を好きになるために成功したい、でも成功する過程でダサいことはしたくない。成功したいという気持ちの動機が、そもそも「すごい人ってって思われれたい」という他人軸だったりもしますから、自分がどう見られるかすごく気にするし、すごいって思われない成功には価値がない。そんな、繊細すぎる自意識に振り回される僕たち世代にド直球の問いかけを投げてきたのが、朝井リョウさんの 『何者』(新潮文庫) だったんです。

『何者』(朝井リョウ著、新潮文庫)/画像クリックでAmazonページへ 「同世代の朝井さんは、僕たちにド直球で問いを突き付けてきた」
『何者』(朝井リョウ著、新潮文庫)/画像クリックでAmazonページへ 「同世代の朝井さんは、僕たちにド直球で問いを突き付けてきた」

 恥をかかずに成功したいだなんて、みっともない欲求なんだよ。それでも本当に「何者かになりたい」って言えるのか? と、朝井さんは突き付けてきた。「何者かになりたい」というのは結局、自意識とのボクシングなんですよ。『何者』における舞台装置である“就活”で考えてみると、会社や就活仲間と戦っているようで、本質的には自分と戦っている。「成功したいから、他人の目なんて気にすべきじゃない」「いや、成功しなくてもいいからダサいって思われたくない」という、自意識との殴り合いなんだと。

 朝井さんは1989年生まれで、僕も同世代です。この世代の空気の正体を暴く、あるいは暴いたことによって問いを与えてくる朝井さんのスタイルが、すごく刺さった。それまで僕はある種、世の中にある正しさをなぞればいいと思っていたけれど、『何者』を読んでからはその奥にあるもの――つまり、自分が模倣しようとしてきた「正しさ」とは一体何なんだろうか? 僕は本当に、その正しさを心の底から求めていたんだろうか? と考えさせられました。

 その答えはたぶん、俯瞰(ふかん)で眺めていたら見過ごしてしまうし、時代の当事者として真剣に向き合うことでしか見つからない。朝井さんの『何者』は、僕ら世代が時代の価値観を再考するための地図なんだと思います。

取材・文/金澤英恵 構成/長野洋子(日経BOOKプラス編集) 写真/稲垣純也 本撮影/スタジオキャスパー