人間は群衆の一員になると、野蛮人と化す。群衆は事実よりも暗示と心象に心動かされる。群衆を操る手段は「断言」、「反覆」、「感染」である――。フランスの社会心理学者ギュスターヴ・ル・ボンが1895年に著した『群衆心理』(櫻井成夫訳)は、いま世界で同時進行中のポピュリズム(大衆迎合主義)を考える手引きとなる。世論調査の結果に一喜一憂する政治家やメディア関係者必読の書だろう。
世界を覆うポピュリズム
2024年7月7日に投開票された東京都知事選。元広島県安芸高田市長の石丸伸二氏が元参院議員の蓮舫氏を上回る得票を集め、政界に「石丸ショック」が走っている。市長時代の石丸氏は市議会との衝突を辞さぬ劇場型の政治を演じ、YouTubeなどで積極的に情報発信した。都知事選でもこれまでの政治に飽き足りない若者層を中心に支持を集めた。
既成政党打破のスローガンが巻き起こすブームは、新自由クラブ、日本新党から綿々と続く日本政治の流れのように思える。それにしても世界の「選挙イヤー」となった2024年は、左右の別なく時の与党が敗北や苦戦を強いられている。物価上昇や生活苦が背景として指摘されるが、人々が不機嫌となり不満が一気に爆発してはいまいか。
世界中で同時に起きているうねりを考える手引きとなる、またとない本がある。フランスの社会心理学者ギュスターヴ・ル・ボンが著した『 群衆心理 』(櫻井成夫訳/講談社学術文庫)である。初版は1895年。「まさにきたらんとする時代は、実に『群衆の時代』というべきであろう」。群衆とは一定の場所に群がり集まる人々のことであるが、その一見まとまりのない存在が万能の力をふるう時代を見抜いたのだ。
「群衆心理」はそれを構成する各個人とは異なる新たな性質を備えている。「集団的精神のなかに入りこめば、人々の知能、従って彼らの個性は消えうせる。異質的なものが同質的なもののなかに埋没してしまう。そして、無意識的性質が支配的になる」。社会が近代化し産業化するとともに、見逃せない存在となった集団心理を正面から捉えたところに本書の価値がある。筆致は辛辣である。
「群衆は、いわば、智慧ではなく凡庸さを積み重ねる」。個人は大勢のなかにいるだけで、抗えない力を感じ、本能に身を任せる。「無意識的活動の奴隷となり、これを催眠術師が意のままにあやつるのである」
そして「人間は群衆の一員となるという事実だけで、文明の階段を幾つもくだってしまう」。個人としては教養ある人だったとしても、「群衆に加わると、本能的な人間、従って野蛮人と化してしまうのだ」。
自由と責任に耐えかね、そこから逃れようとする。フロイト左派の心理学者エーリッヒ・フロムはそんな人々の心理を抉(えぐ)り出した。『 自由からの逃走 』(日高六郎訳/東京創元社)だ。1941年に刊行のフロムの書を、ル・ボンは半世紀近く前に先取りした。
群衆の心を動かすものは、「暗示」、特に「心象(イマージュ)」である。群衆の時代の政治はまさに「イメージ」をうまく操作する手法の争いとなる。
「群衆は、自らの気にいらぬ明白な事実の前では、身をかわして、むしろ誤謬(ごびゅう)でも魅力があるならば、それを神のように崇(あが)めようとする」。21世紀になってますますポピュリズム(大衆迎合主義)が人気を博すのも、こうした群衆心理の帰結といえる。上から目線で訳知り顔の批判を繰り返しても空回りするばかりだろう。
群衆を操る方法
群衆心理の特徴をつかんでおけば、指導者は催眠術師のように人々を操れる。その手段は「断言」、「反覆」、「感染」である。「推理や論証をまぬかれた無条件的な断言こそ、群衆の精神にある思想を沁(し)み込ませる確実な手段となる。断言は、証拠や論証を伴わない、簡潔なものであればあるほど、ますます威力を持つ」
「ワンフレーズ・ポリティクス」と呼ばれた、小泉純一郎元首相の言い回しはこの原則に沿っているようにみえる。テレビ討論で立ち往生するジョー・バイデン米大統領と、「MAGA(Make America Great Again)」を連呼するドナルド・トランプ前大統領では勝負にならない。
いったん断言と反覆の政治が始まったら、相互の応酬には歯止めがかかりにくい。というのも、「断言と反覆に対抗できるほど強力なものは、これまた断言と反覆あるのみである」からだ。選挙について本書の記述は、マキャベリを思わせる辛辣さにあふれている。
「候補者は…このうえもなく架空的な約束をもすることに躊躇(ちゅうちょ)してはならない」。「綱領は、あまり明確であってはならない。反対派の候補者たちが、後日それを楯(たて)に攻撃してくるかも知れないからだ」。「明確な意味を欠き、従って種々な願望に適用される、新たなる標語を発見し得る候補者は、必ず成功する」
世論に振り回されるメディアと政治家
こうして形成された世論は、独り歩きするようになる。「新聞は、もはやただ世論を反映するのみである。政治家にいたっては、世論を指導するどころか、ひたすらそれに追随しようと考え、世論に対する気がねが、往々恐怖にまでなって、政治家の行動から一切の安定性を奪いとってしまうのである」
米国の大ジャーナリスト、ウォルター・リップマンが1922年に著した『 世論 』(掛川トミ子訳/岩波文庫)は、世論という存在を考える際の必読書とされる。同書は「ステレオタイプ」、つまり紋切り型のイメージで世界を見る我々の姿を描き出すが、いささかまどろっこしい。それよりもル・ボンの寸鉄人を刺すひと言の方が、世論と政治の実情を抉り出していないだろうか。
「世論調査の数字には一喜一憂せず…」は指導者たちの決まり文句である。だが時の首相に食い込んだ政治記者の記録、例えば柳沢高志著『 孤独の宰相 菅義偉とは何者だったのか 』(文藝春秋)を読むと、官邸の主が世論調査の結果にいかに左右されていたかが分かる。
政治家たちは世論を操っているようでいて、実は世論のとらわれ人になっている。そんな逆説を鮮やかに描き出したところに『群衆心理』の醍醐味がある。政治や社会の現象を高みから見下ろし、分かったつもりになっている自称教養人こそ、本書を手に取るべきだろう。ル・ボンは容赦なく告げている。これはあなたの姿なのですよ、と。
写真/スタジオキャスパー