老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

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相模原殺傷事件考(優性学的思想のいきつく先)

2016-07-30 20:09:46 | 社会問題
今回の相模原殺人事件。名無しの探偵さんが指摘されているように、わたしたちに多くの問題点を投げかけています。

わたしは、19人と言う殺害人数もさることながら、犯人の確信犯ぶりが、非常に薄気味悪く感じています。検察送致の時の車の中での薄笑いを浮かべた表情は、過去の殺人犯などとは明らかに一線を画しています。

彼のあの表情は一体どこから来るのでしょうか。彼が語ったという【ヒトラーが降りてきた】などという言葉はにわかには信じられません。

たしかに、ヒトラーの優生学に基づく障害者などの殺戮は、約20万人。非人間的ではあるが、きわめて科学的(彼らが信じた科学)で冷徹な認識に基づく処分という側面が強いのです。明らかに彼らが信じた科学的合理的根拠に基づく殺戮だったと思えます。たとえは悪いのですが、鳥インフルにかかった鶏たちを殺処分する医者や保険所職員に近い感性だと思えるのです。

それに比較すると、今回の犯人の感性は、明らかに精神の異常性を感じさせる側面が強く、科学的合理的思考とは程遠い印象があります。ただ、社会的敗者に滑り落ち始めた犯人の心の支え(矜持)として、ナチス・ドイツ風の「優生学」思想が染みつき始めていたのではないかとは感じられます。

彼が学生時代に彫ったとされる入墨ですが、その歴史は古く、遠く魏志倭人伝まで遡ります。倭人伝では、「文身」と表現されています。当時、海に潜って魚をとらえるのに、魚を恐れさせるために彫ったとも言われています。まあ、未開の種族が多く文身を入れているのと同様な理由だったと推測されます。

その後、江戸時代には、犯罪者を明確にするために腕に墨を入れたため、「入墨」は反社会性を示す象徴だとされてきました。いわゆる「入墨者」という事です。ところが、江戸時代、火消し人夫などの間でも「彫り物」が流行りました。これは、同じ入墨でも『刺青』と呼ばれ、男伊達を示す証拠だとされました。

全身『刺青』を彫るのは大変で、彫り始めは大変な高熱に悩まされます。『花と龍』の主人公玉井金五郎が全身刺青を入れるために要した日数は、約30日と言われています。その間、全身の痛みと高熱に耐えて入れるのが『刺青』と言うわけです。だから、火消したちが「男伊達」と言い、やくざたちの間では、『我慢』と称賛するのも理由があったのです。さらにやくざたちは、「刺青」を彫ったら、もう2度と堅気の世界には戻れない。一生やくざの世界で生きていく覚悟を示すもの、だともされてきたのです。

ところが、今回の犯人。そんな覚悟で「入墨」(※決して刺青ではない)を彫ってはいないようです。堅気の世界(一般社会)では生きていかないという覚悟があるのなら、彼は全く違う世界で生きていたはずです。

ところが、彼は入墨のため、教師志望は断念せざるを得なかったのですが、障害者の世話という福祉の仕事に就いたのです。ところが、彼がひた隠しにしていた「入墨」が障害者施設にばれてしまいます。当然、彼を見る周囲の目は劇的に変化したはずです。わたしは、この『周囲の目の変化』が彼の内面に与えた影響が、今回の凶行の最大の原因であろうと推測しています。

おそらく、ここで初めて彼は「社会の掟」=「反社会的人物の排除」という目(入墨に対する社会の偏見と言ってよいかもしれません)に直面したのでしょう。そうでないと、当初、彼が入所者に対してきわめて優しく、丁寧に接していた事が説明できません。ところが、自らの青春の過ちと言ってよいかも知れない「入墨」のため、周囲の厳しい視線にさらされたのです。「入墨」は消えないのです。「入墨」を見るたびに、厭でも何でも『自分の過去』と向き合わざるを得ないのです。彼は、この現実に耐えられなかったのでしょう。彼と大麻とのかかわりもこれが原因だろうと思います。ここまではよくあるケースです。

ここからが、彼の特異なところです。彼は自分の過去が挫折の原因だとは決して認めず、自らの矜持を保つために、ヒトラー率いるナチスドイツの「優生学」理念を求めたのだと思います。障害者を「生きていく価値がない人間」、「社会のお荷物」、「社会に何の貢献もできない人間」と規定。自らの存在を一段高みに置き、自らの矜持を満足させようとしたのでしょう。

しかも、それだけでは満足できなくて、自らの存在意義を社会的に高めようとして、衆議院議長に『障害者を殺す用意がある』という手紙を書いたのでしょう。

普通の人間は、『人を殺したいと心で願う事』と『殺人を実行する事』との間には、超える事のできない大きな『裂け目』がある事を本能的に知っています。人には、本能的に『良心』というものが備わっているのです。さらに、小さい時から、『人を殺してはならない』という社会倫理・社会規範を叩きこまれています。この心理的重圧を突破するのは、そんなに簡単なことではないのです。

この犯人の特異なところは、この【裂け目】を認識していないのか、そこで全く悩んでいないところにあります。いとも簡単に飛び越え、殺戮そのものに良心の呵責も感ぜず、何の反省もないところが彼の特異性なのです。

ここが最大の問題点なのです。『優生学』思想は、きわめて分析的で、科学的な思考ですが、人間の『多様性』を認めない思想なのです。人間を有用性・効率性だけで判断すれば、障害者は邪魔者にしかなりません。

ファシズムとかナチズムという政治形態は、一見、ファナティックで狂信的で、非常に非理性的で感情的な政治思考に見えますが、これを本当に推進してきた連中の多くは、きわめて理性的・科学的・合理的思考の持ち主が多いのです。日本でも戦時体制を本当に支えたのは、岸信介などに代表されるいわゆる【革新官僚】と呼ばれた人々なのです。戦争中の軍部の言論弾圧の記録などを読むと、弾圧をする側の知的レベルは相当高い事がすぐ分かります。

こういう知的レベルの高い連中が、『優生学』的思考にからめとられると、ナチス・ドイツばりの虐殺が行われる可能性が高いのです。何故なら、優秀な連中になればなるほど、優秀でない人間の価値を認める事ができませんし、社会的コスト削減という合理的で非人間的な思考に傾きやすいのです。

だから、戦後、ナチス・ドイツの支配下で、障害者排除に協力した多くの医者たちは、裁判の場で、「我々は医学の進歩に貢献しただけだ」と主張し、反省の色すら見せませんでした。 そして、多くの医学者たちが罪を問われることもなく、東西ドイツの医療や教育や研究の第一線の場で活動し続けたのです。西ドイツの大統領として有名なワイツゼッカーもそうでした。

今回の犯人は、ドイツの医者のような研究者でも、科学者でもありません。彼にナチス・ドイツの医者のような信念もないと思えます。では何故彼は反省できないのでしょうか。それはただ1点。彼の『錯覚』『幻影』『幻覚』だと考えられます。

わたしは障害児と呼ばれる子供たちを何人も知っています。その子供たちと生活していると、一番陥りやすい錯覚は、【自分は賢い・偉い】と思う事なのです。それはそうでしょう。健常児と同じ事が出来ないから、障害児なのです。だから、通常よりはるかに手はかかるし、効果も少ないのです。しかし、障害児にとって、教師とか指導員は、命の綱なのです。その人がいなくては生きてはいけない、生活ができない、というような存在なのです。

通常、障害児学級を持った担任は、それこそ障害児のために全身全霊を傾けて指導します。周囲の無理解・偏見などには、真っ先に立ち向かい、抗議し、全力で障害児を守るために活動します。障害児を持った親御さんは、悩みがつきません。だから、担任教師には多くの相談事が寄せられます。それこそ、夜も日もなしに障害児のために活動しているのです。わたしなどは、彼らの献身的な仕事ぶりを見ていて、本当に頭が下がりました。

ところが中には、そのような生き方ができない人もいます。「なんで俺が彼らのために頑張らなければならないんだ」とか「なんで俺が我慢しなければならないんだ」とか、考える人間も出てきます。このような思考に陥りやすい人間は、『自分の価値』を高く評価しているのです。自分は『価値の低い人間』を相手にするような人間ではない、と考えるのです。こういう思考にとらわれると、実際以上に『自分を過大評価』する場合が多いのです。わたしも何人か知っていますが、この『錯覚』『妄想』『幻影』を解くのはなかなか難しいのです。

おそらく、犯人の植松は、この『錯覚』『妄想』『幻影』から抜け出せなかったのでしょう。そこへ「入墨」による自らへの排除がきて、辛うじて社会とつながっていた心の糸が切れたのではないかと想像します。彼の迷い込んだ『錯覚』『妄想』『幻影』が解き放たれたため、殺人の後の一種のカタルシスを生んだのではないかと想像します。

問題は、社会が、『優生学』的思考の理論的誤謬を徹底的に指摘しなければならないのです。この事は、現在の社会の覆っている思想を根底から否定する覚悟がいります。

以前、わたしは、『植林の思想』という一文を書きました。戦後日本で金になるからと言って、全国で杉やヒノキが植林されました。この植林の結果、森林の多様性が失われ、森が荒れ、日本中が花粉症に悩まされているのです。

その土地には、その土地にあった植生があります。地球の豊かな自然(特に日本)は、多様な植生により守られてきました。生物でも同じです。微生物からクジラのような大型動物まで、多様な生物が存在するから、動物たちは生きられるのです。自然の摂理は、多様性によって守られているのです。強いもの、能力のあるものだけで構成されたものなど決して長続きはしないのです。マンモスが良い例ですが、強いだけで生き残れるものなどないのです。

地球の歴史、生物の歴史、人類の歴史が明確に示しているように、『多様性』を大切にする思想こそ真理なのです。ナチス・ドイツの蛮行を見れば明らかのように、『優生学』のような思想は間違いなのです。

翻って現在の日本を見て見ましょう。世界的にも多くの人々から疑問を呈され、多くの若者たちの怨嗟の象徴になっている『新自由主義』的思考が一周遅れで花盛りです。この『新自由主義的思考』こそ、多様性を拒否する『優生学』的思考の典型です。

何年か前、高名なノーベル賞学者が、中央教育審議会で、胎内にいる赤ん坊の時、遺伝子検査で問題が認識されたら排除するのを容認すかのごとき発言をして物議をかもしました。完全な優生学的認識の発言だったと記憶しています。

当時、わたしは彼と対極的な公教育論を提示していました。『小中学校は公立学校だけにして、私立は認めない』というものです。何故なのか。「人間の一生のうち、せめて小学校・中学校だけは、全ての階層の子供が同じ場所で学び生活する場所を確保すべき。そうする事により、その中ら育ったエリートたち(政治家・学者・官僚・企業家など)は、国民の暮らしや考え方などを理解できる環境が生まれる。長い目で見れば、それが国民・国家のためになる」というものでした。

わたしの真意は、『優生学的』合理主義思考を排除できる精神的環境が、全ての階層の国民の子弟が、同じ場所・同じ環境・同じ教育を受ける事により、整える事ができる、というものでした。

安倍政権下で跋扈する【新自由主義的】思想に基づく教育改革は、これと全く正反対の理念(弱肉強食)に基づいています。今回の犯人もそうですが、そういう環境で育ち、エリートとしていくばくかの希望を持った人間が、挫折し、滑り台社会の現実を思い知らされた時、何が起きるのか。誰にも想像できません。

今回の相模原事件。わたしたちが真剣に考えなくてはならないのは、犯人を生み出す要因となっている社会環境そのものだと思います。犯人植松のような人間を根絶する事は誰にも出来ないのですが、少なくする事はできます。過去の日本はある程度それができていたはずです。日本人はここらあたりでもう一度立ち止まり、深呼吸をして、深く考える時期に差し掛かっていると思います。

「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
流水

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