岡田克也さんが2010年9月17日に、外務大臣をやめて、民主党幹事長に1年ぶり3度目、与党としては初めて復帰したのは、藤井裕久さんが菅直人首相(民主党代表)との間を取り持っていたことを、岡田さんが初めて公にしました。
岡田さんは2013年9月19日付の「岡田かつやTalk-About」で、16日に藤井裕久さんの旭日大綬章叙勲記念パーティーに出席したとし、「藤井先生との関係で思い出すのは、私が外務大臣を務めていた折に、枝野幹事長が参議院選挙の敗北の責任を取って交代するとなったとき、後任の幹事長を私にどうかという話がありました。私としては、外務大臣を引き続きやりたいという気持ちが強かったのですが、藤井先生から、「国のため、党のために是非引き受けてくれ」と言われ、私としては天命だと受け止めて、幹事長をお引き受けしたことを思い出します」と語りました。
この経緯としては、2010年6月2日に鳩山総理・代表が辞任したときに、当初、岡田さんは後継総理への意欲があったものの、その夜に党内派閥「凌雲会」創設者の枝野幸男さんが「菅副総理支持」を表明してしまったため、派閥を持たない岡田さんは選対事務局をつくれない状況になり、翌日、菅副総理自ら外務省を訪れて大臣室で岡田外相に支援を要請したため、筆頭推薦人を受け入れたということがあります。この際に、菅内閣での枝野幹事長就任と、岡田外相続投の人事は決まっていたのであろうと考えられます。ところが、直後の参院選で民主党が大敗したことから、幹事長の後継者として岡田さんという話になり、岡田さんは話が違うという意識があったと考えれます。
これについて、就任当時の岡田幹事長の記者会見で、筆者が第一質問者として「この記者会見は1人1問と決まっている」と前々任者の小沢一郎氏を皮肉ったうえで、「(1)なぜ冒頭議員バッジを外したのか(2)藤井裕久さんから「日本の政治史にとって大切なときなのであなたしかいない」と言われたのではないか(3)奥さんから「1年前に幹事長を(小沢氏の命令を受けた鳩山代表)外された時にはあなた憤慨していた(のに、1年経って外相から幹事長に戻されることを拒むのはおかしい)じゃない」と言われたのではないか」という3つの質問をしました。
これについて、岡田さんは(3)と(1)の質問には答えてくれましたが、(2)の藤井発言については返答がなく、その後も筆者はとくに追加取材をしていませんでしたが、今回のブログで、やはり藤井さんが菅首相と岡田外相の間を取り持っていたことが分かりました。その後、藤井さんは、野田内閣の最終局面まで人事への影響力を持ち、総理の抵抗を押し切って総理補佐官を無理やり辞めさせるという出来事までありました。
岡田さんは藤井さんについて「いままでいろいろなことがありました」としました。これは、経世会・改革フォーラム21・新生党・新進党と足並みをそろえていたのに、新進党解党で、藤井さんがあろうことか、小沢氏率いる自由党に行ってしまったのが第一。ところが、運命とは不思議なもので、「自由党との合併」を公約にかかげた鳩山由紀夫代表が党内クーデーターで引きずりおろされると、菅政調会長が自民党・新生党出身の岡田幹事長代理を当選4回ながら幹事長に抜擢。岡田幹事長が自由党の藤井幹事長との信頼関係の中でスムーズに実務をすすめ、ちょうど10年前に民由合併をなしとげたのが一点。
そして、民由合併後の初の通常国会で、菅代表が閣僚の国民年金未納を追及したところ、ブーメランで代表辞任に追い込まれた際、岡田代表・藤井幹事長の緊急登板で、参院選を戦ったところ、民主党結党以来初の第1党になるという、再ブーメランを果たしました。ところが、選挙に勝ったのに、藤井幹事長がおそらく小沢氏の命令か何かで、辞任してしまうという奇妙な現象が起きました。そして、次の通常国会では、郵政解散で大敗してしまいました。
これだけでも相当省略していますが、岡田さんと藤井さんはほんとうに「いろいろあった」わけです。Talk-Aboutでの「これからも、テレビなどを通じて、あるいはいろいろな場で、民主党の将来に対してご指導・ご発言をいただきたいと思っています。」とのやや遠まわしな表現もそのような意味です。
ところで、菅直人さんと枝野幸男さんといえば、羽田内閣を裏切り村山内閣をつくった「新党ぬけがけ」(新党さきがけ)の中心人物です。その後枝野弁護士の情報に基づき、菅厚生大臣が厚生省のすでにあることが分かっているファイルを大臣命令で出させたのは、有名な話です。そして、阪神・淡路大震災を迎えました。新党ぬけがけによる羽田内閣の裏切りは、日本の歴史にとって万死に値する罪であり、菅・枝野が東日本大震災で退陣に追い込まれたのは、天罰だと私は、実際のところは考えております。
私は、2009年5月なり、2010年6月なりに岡田さんが総理・代表になっていたら、東日本大震災はちがった姿になったと考えています。しかし、それは心の中にとどめておきたいところです。
岡田かつや公式ホームページの秘書日記には、ことし5月の「被災地に響く「岡田幹事長」」という記事があります。これは震災から2年以上経ったのに、今でも被災地では「岡田幹事長」と呼ぶ人が多いとの随行録。大船渡漁協の組合長さんは「当時の岡田幹事長のイメージがどうしても抜けず、いつも『岡田幹事長』と言っている」とのこと。
3・11直後に、岡田幹事長が1期生議員らを集めて、「こういうときこそ、人は見られている」と指導しました。5月2日に全会一致で成立させた平成23年度第1次補正予算(復旧補正)では、「漁師さんが漁港のがれき処理をすると日当1・5万円」を盛り込み、全漁連会長から岡田幹事長は絶賛されました。その後、復旧・復興をめぐり政府内がおかしくなっていったわけですが、このとき私は、農協の組合長と違って、漁協組合長は組合員の生命を預かっているから、信頼に足りる人が多いな、と感じました。まさに「こういうときこそ、人は見られている」という感じです。もちろん、菅直人総理もその一人です。
そして、岡田幹事長が就任会見で3つの質問のうち答えてくれた2つの答えの一つ。なぜ議員バッジを外すのか。その答えはこうでした。
「バッジをはずすのは、別に国会議員を辞めたいからではございません。基本的に私は、国会の中、議員会館の中以外ではバッジをつけないということを、20年くらいやってきておりますので、今日は忙しすぎてそれを忘れていたということです。」
この時点で、岡田さんは勤続20年を超えて21年目に入っていました。
大蔵大臣に就任して、大臣室に入った羽田孜蔵相と綏子(やすこ)夫人(羽田孜公式ホームページから)。羽田さんもバッジをつけていません。皇居と官邸と大蔵省の往来にバッジは要りません。羽田さんは「有権者と語らうときにバッジほど邪魔なものはない」として、国会法で定められたところのほかは極力バッジをつけませんでした。バッジなしで街頭演説をする姿が、あの厳しい政治改革政局から20年経っても、岡田さん、石破さん、あるいは小沢一郎氏らが連続当選し続ける足腰になったのです。
つまり、昨年末の羽田孜さんから羽田雄一郎さんへの長野3区世襲を強硬に岡田さんが反対したのは、「日本政治史における羽田孜の役割」に傷がつくことをおそれたからであることを、ぜひ千曲会のみなさんにもご理解いただきたいところです。
藤井さんは羽田さんとともに今月、民主党顧問7人に就任しました。党規約にある党顧問が実際におかれたのは、今年が初めて。私が知る限り、藤井さんは合計3回引退表明していると思いますが、さすがに今回は引退表明撤回はないでしょう。いつも引退表明のたびに「自由人宣言」をしていますが、自由人ではなく、「民主人」として命ある限り見守り続けてほしいものです。
当ブログ内関連エントリー)羽田孜さん桐花大綬章、中野寛成、藤井裕久さんら旭日大綬章 政権交代訴えて、たった一度の人生で勲章
これも「天命」なのかな 岡田克也さん、民主党幹事長に1年ぶりに復帰
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