生きる歓び

あまりにも暑いので、短い小説などを読むことにした。
保坂和志という作家には以前から関心があったが、読むのは今回がはじめてだ。

生きる歓び (新潮文庫)

生きる歓び (新潮文庫)


表題作。
主人公の「私」は、墓参りに行って、命があやぶまれる状態の子猫をひろう。生後二、三週間だが、目がみえないらしい。あまり気はすすまなかったが、周囲にいたほかの人は拾いたがらず、ほうっておくとカラスに食べられかねないので、自分が拾って飼うことにした。
猫の体が弱っていることもあり、世話をするのはたいへんだが、世話を引き受けると決めてしまうと苦にはならなくなる。なぜなら、

大げさに聞こえるとは思うが、自分のことを何もせずに誰かのことだけをするというのは、じつは一番充実する。(30ページ)

からだ。

人生というものが自分だけのものだったとしたら無意味だと思う。(30ページ)

と考える「私」は、『自分以外のものに時間を使うことの貴重さ』をよく知っているが、しかしまた、

そんな時間はできれば送りたくはない。逃げられないから引き受けるのだ。そして普段は横浜ベイスターズの応援にうつつをぬかしていたい。(31ページ)

という冷めた感覚も持ち合わせていて、『時間の流れに「身を任せる」ようなとりとめのない、全体としてとても受動的な気分』で子猫の世話に没頭していく。
しかし猫の状態は思った以上に悪いようで、全盲である可能性もあるらしい。また、風邪を引いているらしく、えさやミルクを与えようとしてもまるでうけつけず眠りつづける。
そんな様子を見て、

私はこのまま生きられずに死んでゆくのだとしても、それはそれでいいことなのかもしれないと思った。(36ページ)

だいたい生きるというのはそんなにいいことなのだろうかと私は思った。それは無条件でいいと断定できるのだろうか。(37ページ)

と自問する。
しかし、子猫はやがて回復しはじめる。その様子を見た「私」は、子猫が『生きていることの歓びを小さな存在のすべてで発散させている』と感じ、

「生命」にとっては「生きる」ことはそのまま「歓び」であり「善」なのだ。(45ページ)

と思うようにさえなる。


大枠はこういう筋である。
「私」がなぜ子猫を拾って飼うという行動をとったのか、積極的な説明は書かれていない。できればそんな面倒を引き受けたくなかったのだが、猫好きの「私」としては、目の前の子猫の窮状を放置できなかった。そしてそうなった以上、自分のことを放り出して猫の世話をすることに、「私」は充実感を覚えながら没頭していくのである。
この「充実」した他者への奉仕は、生のなかの何かに対する否定、あるいは拒絶だとおもう。その「何か」というのは、闘争のようなことではないか。
それは自分が生きることそのものに対する否定ではないのだが、生が闘争を本質として含んでいるなら、それは生への部分的な否定を結果的に生じるかもしれない。
この「私」の姿勢は、生きるための行動を拒んで眠り続ける子猫の頑なな姿とどこかで重なっているみたいに思える。

全部で刺し身一切れの半分より少ないぐらいだったが、とにかく食べた。食べたということは、生きる方向の何かが動いたということだろうと思った。もっともさっき食べなかったときに、嫌がったり抵抗したりしたというのも、自分の身を守るための反応で、自分の身を守るというのも生きるための反応と解釈することはできるけれど、猫の場合それはちょっとわからないところがある。白血病で死んだチーちゃんは、人間に何かされるのを拒否して完全に自分の中にひきこもってしまうようなときもあった。(43ページ)

ぼくは猫を飼ったことがないが、猫という動物は、フロイトのいう「ナルシズム神経症」に近いところがあるのだろうか。
そしてこの生きることに対する拒絶の頑なさは、「私」の現実に対する受動的な対し方と似ているようにおもうのだ。
この短い小説の後半では、それが子猫の回復する姿を眼にすることで「生きることが歓び」であるという実感をもつに至るようになる。
これは、生に対する受動性や否定から、積極性や肯定への劇的な変化であるみたいに思える。主人公自身が特に変わったとは書かれていないが、生に対するとらえ方に非常に大きな変化があったことは書かれている。
この変化をどう考えたらいいのかが、ぼくにはいまのところよく分からない。


視覚ということが重要なテーマになっているようなので、目が見えないという状態と、まるで夢の中にいるみたいな「私」の受動的な生の態度とが、重なるものとして書かれているのかもしれない。つまり、ナルシズムと目が見えない状態との関係、のような。
また冒頭の墓地にいるカラスの存在から、生に近接する死というものが、色濃く描かれているようでもある。後半部で、草間彌生という人のインタビューの話が出てくるが、これも「死の間近さ」みたいな内容の話だ。


ともかくいずれにせよ、前半の受動的な生への態度と、後半で示される肯定的な認識との関係が、ぼくにはよく分からないのだが、この小説にはこういうことも書いてある。

心は微妙なのではなくて、それぞれはけっこう単純なものが、いっぱいに詰まって錯綜している。しかし、通常使う文章が、心の錯綜のようなものをモデルとしていないから、一見すごく込み入ったことを言っているように見えてしまう。私もここで込み入ったことを言ったわけではない。二つは別のことだというのを強調しただけだ。(40ページ)

だから、この二つのことも、ともかく並立し錯綜しているというだけなのかもしれない。
猫が好きな人には、特におすすめの小説である。


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