遠くない人が亡くなっても、悲しめない自分がいる。「悲しい」とは思うのだけれど、思うだけであって、何かこう表面的に、悲しんでいる自分を演じている風になってしまう。
例えば親類が無くなって、生前はお世話になっていて、まだ若くして亡くなった人のお通夜や葬式に参加した時、本気で悲しんでいない自分を冷静に客観視できてしまう。嫌悪してしまう。悲しまなければならないのか? などという無駄な問答をする。そういう問題じゃないと思う、本当は。悲しい時は悲しいし悲しくない時は悲しくない。
だけど、人が死んでいて、且つそれが遠くない人なのに、なぜ涙が出ないのだろうか、本気で悲しいと思わないのだろうか。
それはその人が悲しむに値しない人だからなのか? 違うと思う。だって、人が死んでんねんで、冗談ではなく。例えば、もう年をめして、静かに逝った、というのであれば「あぁ、良かったね」と笑顔で送り出せるのかもしれない。いや、これは若い人でも同じか。「いい笑顔してるでしょ」と仏さんの顔を見ながら仰る近親の人の言葉の中には、間違いなく哀しみが含まれている。ただ、立ち直りに時間がかかるかからないだったり、切り替えられるだったりの部分の話であって、悲しんでいることは本当なのだ。
身近な人の死に対して本気の涙を流したのがいつなのか思い出せない。マンガや、アニメでは、結構泣くのに、身近な人の死で泣けない。泣かなければならないという義務感に苛まれているのではない。なぜ、人の死を客観的に捉え、さらには「悲しんでいる自分」を無意識に演じている自分がいて、さらにそれを深く考えようともせず放ったらかしにしているのか。
そう、これまでこういうことすら考えることすらしてこなかった。そして多分それは興味がなかったからなのかもしれない。余りに自分を周りから突き放しすぎていて、人の死に対して鈍感なのかもしれない。
よく、フィクションの作品で、人の死を悲しめないキャラクターというのが登場する。一番直近で出会ったのは、西尾維新さんの最新「伝説シリーズ」に登場する空々空というキャラクターだった。彼は人の死をとても客観視する。怒らないし悲しまない。そして「悲しんでいる演技をする」のだ。それはト書きでも書かれている。空々空という人間は「そういう人間なのである」と冷静に、ト書きでツッコミが入る。
こういうフィクションの、想像上のキャラクターに対して多くの人がどう思うのかは分からないが、私は、この空々空というキャラクターに完全に感情移入していた。だから、冗談ではなく、「うんうん、そうだよね」と強く同意をしながら読み進めたのだ。だからこそ、分厚い三部作をいつの間にか読みきっていたのだと思う。
そして思う。私は、家族が死んでも悲しめるのだろうか、と。とても怖い。それが怖い。家族が死んでも涙が自然と流れなかったら、死んだほうがいいかもしれない。
>>マンガや、アニメでは、結構泣くのに、身近な人の死で泣けない。<< 死という結果じゃなくて、その過程に感情移入するタイプなんだろう。 結果は結果でどうにもならんし受...