1933年の橋
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橋が架けられる以前は単に「渡し」と呼ばれた無名の渡船場が旧久那橋のやや下流側の辺りに存在していた。渡船に使用されていた船は川漁師が船頭を務める遊漁船で、漁撈のついでということもあり、渡船料は無賃であったがお礼を支払う者もいた。また、秩父三十四箇所の巡礼の際にも利用されていた。この渡船場は1930年(昭和5年)ごろに廃止されている。 渡船は大水の際は運行不能となるため、現在の橋の150メートル上流側の位置である現在の荒川総合運動公園体育館付近に1933年(昭和8年)に橋長85.0メートル、幅員2.7メートルの旧巴川橋によく似た吊り橋が久那村の落合地区および栗原地区により架設され、久那橋と命名された。歩行者の他、自動車などの車両の通行も可能であった。主塔は鋼製でトラス構造を持ち、欄干は鉄製で桁の両側に耐風索および耐風支索と呼ばれる、桁の横変位と捩れを抑制するための鉄索(ケーブル)が設けられていた。この吊り橋の開通によって久那地区の発展に寄与してきたが、老朽化により通行制限が実施され、歩行者専用の橋(人道橋)となった。この橋は奥秩父において最後の吊り橋であったが1982年(昭和57年)12月の永久橋の開通により、廃止され1983年(昭和58年)3月に撤去された。旧久那橋の左岸橋台の遺構が残る。現在旧橋とほぼ同じ場所にコンクリート製の丸い柱が河道に飛び石状に配された中ノ橋がある。また、1982年11月には新しい久那橋の架設を記念してその歴史を記した「久那橋竣工記念碑」が左岸側橋詰の旧橋と新橋の取り付け道路の合流点の場所にある「落合公会堂」に設立されている。
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1933年の橋
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1933年(昭和8年)3月15日に石戸村と東吉見村の間を流れる荒川に初代の荒井橋が木製の冠水橋(かんすいきょう)として架橋された。開通式は3月15日の16時に挙行され、内務省直轄荒川改修事務所春木技師を初め関係町村の代表者70名余りが列席し、先ず修祓の儀が執り行われた後、橋の両岸に所在する東吉見小学校(現、吉見町立東第二小学校)と石戸小学校の上級児童による渡り初めの他、角力(相撲)や神楽や郷土芸能大会などの余興が催されるなど大賑いだったという。橋長90メートル、幅員4メートル で工費は9000円だった。道幅が狭いことから交互通行であった。また、河川改修により直線化される前の旧川に架けられていた。開通当時は村道だったが1939年(昭和14年)4月に県道に編入されている。橋は荒井地区の人が管理していて、橋が洪水で流失した際は荒川地区が橋の部材を調達し、橋を復旧する作業をしていた。また、地区の話し合いより船頭を抜擢し、橋が流失するなどして通行不能となった際に臨時で渡船を出していたほか、橋の通行料は船頭が徴収していた。なお、荒井地区の人は無料で通行することができた。この橋は1938年(昭和13年)9月1日の大洪水で橋が流失したが、その際の架け替えの際の費用として当時の石戸村長が私財を投じたという。その時の状況は1940年に建てられた「荒井橋記念碑」の碑文に記されている。この後も洪水によって橋が度々流失、もしくは一部損壊するなどして長期にわたって通行不能となった。度重なる洪水を鎮めるために人柱を捧げた伝承も残されている。1965年(昭和40年)9月17日にも台風24号による洪水で流失し、県は1191万8000円の工事費を掛けて1966年(昭和41年)3月25日開通予定で復旧工事が進められた。橋は通行止めになりその間、仮橋が架けられた。
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