龐悳とは? わかりやすく解説

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龐悳Pang De

ホウトク
ハウトク

(?~219
立義将軍関門亭壮侯

字は令明。南安郡豲道の人。

若くして郡吏や州の従事となった初平年間一九〇~一九四)、馬騰従い叛乱した羌族氐族撃って功績重ね次第昇進して校尉になった

建安年間一九六~二二〇)、袁譚袁尚らは黎陽において太祖曹操)と対峙する一方郭援高幹らに河東郡攻略させた。太祖鍾繇関中諸将率いて迎撃させることにした。龐悳は馬騰の子馬超随従し、平陽において郭援らと対峙する。龐悳は先鋒として郭援らを攻撃、これを大破してその手郭援の首を斬った。

戦い終わったあと、人々はみな郭援死んだのに彼の首がないと言った。龐悳が遅れてやって来て鞬(ゆぎ)の中から首一つを出すと、それを見た鍾繇大声泣いた郭援鍾繇の甥であった。龐悳が鍾繇謝罪すると、鍾繇言った。「郭援我が甥だが国賊である。卿はなぜ謝るのだ?」この功績により中郎将の官を授かり、都亭侯に封ぜられた。

のちに張白騎弘農叛逆すると、龐悳はまた馬騰に従って征伐し、両殽の間で張白騎破った戦闘のたび、常に敵陣突入した敵軍撃退して武勇馬騰軍でも随一であった

のちに馬騰朝廷召されて衛尉となり、龐悳は留まって馬超属した太祖渭南馬超を破ると、龐悳は馬超に従って漢陽郡亡命し、冀城を守った。のちにまた馬超に従って漢中出奔し張魯従った太祖漢中平定すると、龐悳は人々とともに降伏した太祖はもともと彼の驍勇聞いていたので、立義将軍の官を授け関門亭侯に封じ所領三百戸とした。

侯音・衛開らが宛城叛逆すると、龐悳は配下率いて曹仁とともに宛城攻め落とし侯音・衛開を斬り、そのまま南に進んで樊城屯し関羽討伐した。樊城にいた諸将は龐悳の兄が漢中にいたので、彼をすこぶる疑った。龐悳はつねづね言っていた。「我は国恩受けており、義は死を顕すことにある。我は自ら関羽撃ちたいと思う。今年中我が関羽を殺さなければ関羽が我を殺すだろう」のちに自ら関羽交戦し関羽を弓で狙って額に射当てた。そのころ龐悳はいつも白馬乗っていて、関羽軍中では彼を白馬将軍呼んで、みな恐れ憚った。

曹仁は龐悳を樊城の北十里に屯させていたが、ちょうど十日余りも続く長雨となり、漢水氾濫し樊城平地五・六丈も水没したので、龐悳は諸将とともに堤に登って避けた関羽が船に乗って攻め寄せ大船四方から堤の上に矢を降らせた。龐悳は甲冑身に付けて弓を持ったが、放った矢が当たらぬことはなかった。将軍董衡部曲董超らが降服しようとしたので、龐悳は彼らを捕まえて斬り捨てた

日の出から力戦尽くして正午過ぎたが、関羽攻撃はますます激しくなるばかりだった。(龐悳の手元の)矢が尽き果てたので、刀剣を手にして接近戦をした。龐悳は督将の成何言った。「吾は聞く良将死に怯えて逃げ延びず烈士は節を損なって生を求めず、と。今日は我の死ぬ日だ」。戦いながらますます憤怒し、気迫はいよいよ壮烈になった

しかし浸水がひどくなり、軍吏や兵士はみな降服してしまった。龐悳は麾下将一人、五伯二人とともに弓を引き絞りながら矢のをかいくぐり(?)、小船乗って曹仁陣営帰ろうとしたが、水の勢いで船が転覆して弓矢失った

転覆した船につかまって一人水中にいたところ、関羽捕虜になったが、立ったまま跪こうとしなかった。関羽言った。「卿の兄は漢中にいる。我は卿を将に取り立てた思っていたが、なぜ早々に降服しなかったのだね?」、龐悳は関羽を罵って言った。「小僧め、なぜ降服を言うのか!魏王曹操)には武装兵百万があって、威信天下に振るわせておられる。汝(おまえ)の劉備凡才過ぎぬ。どうして敵うものか!我は国家の鬼となるとも、賊将はならぬぞ」。とうとう関羽殺されてしまった。

太祖聞いて悲しみ彼のために涙を流した彼の二人の子列侯封じた

文帝曹丕)は王位に即くと、龐悳の墓前使者をやって諡を賜った。「思うに侯は戦いにおいて果毅明らかにし、困難を踏み越え功名成し遂げた名声当時溢れ義心往昔よりも高かった寡人哀悼し、諡して壮侯とする」。また子の龐会四人関内侯爵位賜り所領をおのおの百戸とした。

参照】衛開 / 袁尚 / 袁譚 / 郭援 / 関羽 / 侯音 / 高幹 / 鍾繇 / 成何 / 曹仁 / 曹操 / 曹丕 / 張白騎 / 張魯 / 董衡 / 董超 / 馬超 / 馬騰 / 龐会 / 龐柔(龐悳の兄) / 劉備 / 渭南 / 宛県 / 河東郡 / 漢水 / 漢中郡 / 関中 / 豲道県 / 関門亭 / 漢陽郡 / 冀県 / 魏 / 殽山(両殽) / 弘農郡 / 都亭 / 南安郡 / 樊城 / 平陽県 / 黎陽県 / 衛尉 / 王 / 関内侯 / 郡吏 / 校尉 / 従事 / 将軍 / 壮侯 / 中郎将 / 亭侯 / 督将 / 列侯 / 部曲将 / 立義将軍 / 諡 / 羌族 / 五伯 / 氐族 / 白馬将軍 / 部曲 / 鞬


龐悳(ほう とく、字・令明)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:12 UTC 版)

蒼天航路」の記事における「龐悳(ほう とく、字・令明)」の解説

始め馬超家臣であり西涼の乱で曹操軍と戦う。その後馬超と袂を分かち漢中身を寄せ曹操入城した際に降伏、己の意志で主を選び涼州の武を貫くことを決意する樊城での関羽との交戦では、関羽の額を射抜くも、一騎討ちで斬られた。

※この「龐悳(ほう とく、字・令明)」の解説は、「蒼天航路」の解説の一部です。
「龐悳(ほう とく、字・令明)」を含む「蒼天航路」の記事については、「蒼天航路」の概要を参照ください。

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